見出し画像

「自分は何のために生まれてきたんだろう」

何をやればいいかわからない、というのは結構な数の人間が抱えている悩みのようである。いわゆる「生き甲斐」というやつだ。

このような悩みは20代中盤の頃私も抱えていた。それまでエスカレーターで大学にまで上り、卒業すると私は突然悩むようになった。「自分は何のために生きてきたんだろう」とひたすら悩みに悩み抜いた。

だがそれから十年経過したら、結局それは贅沢な悩みなんだと思うようになった。衣食住が満たされているからこそ「自分が生まれてきた理由」というものを見出そうとするのだなと思うようになった。明日の食事が不安になるくらいに生きていくのに精一杯だったらそんな悠長なことなど考えなくなるからだ。
実際に、現代でもそのような事例はいくらでもあるだろう。就職したての頃は「自分が生まれてきた理由」で悩む人間も、結婚して子供を持つようになれば大抵毎日が精一杯になる。そうなってくると「生まれきた理由」など考える余裕はなくなる。そして一種の皮肉かもしれないが、その齷齪した毎日、つまり子供を産み育てることこそが「生まれてきた理由」となる。
「生まれてきた理由」というのは所詮暇人の所業にしかすぎないのだろう。古代ギリシャにおいて哲学が栄えたのは、国民の半分が奴隷であり、働かなくてもいい非奴隷たちが暇を持て余していたのだ。

そんな贅沢な身分の中、やはり「生まれてきた理由」に迷っているとしたら、結局その答えは「やるべきことをやるべし」ということになる。「生まれてきた理由」を求めている人間も、必ずその時点やらなければならないこと、やりたいこと、やっていることはあるはずである。結局はそれを徹底的にやることである。具体的にそれが何かは人それぞれである。「どう生きればいいかわからない」という問いに対して、「何を」するべきかはその人間の性格、能力、経済力、環境等によって異なる。だが「どう生きればいいかわからない」人間も「何か」はやっているはずである。その「何か」を徹底的にやること、それによって何かしら「生まれてきた理由」へと近づいていけるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?