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【逗子・葉山 海街珈琲祭vol.2】BREATHER COFFEEが逗子につくる、メルボルンで出会ったカフェの風景

逗子には三角形に交差する、3つの商店街がある。このうちの1つの池田通りを歩きながら上を見上げると、この街は空が広いことに気づく。電線がない通りにはいつでも気持ちの良い風が抜け、海街の空気がスルスルと身体に染み込んでくる。

この池田通りの中ほどにあるのが、白い外観が特徴的なBREATHER COFFEE。今回、「逗子・葉山 海街珈琲祭」の実行委員も務める。
メルボルンでコーヒーを淹れていた夫婦が、自分たちのお店を出す場所として2年前に選んだ街は、東京ではなく逗子だった。

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コーヒーで生きると決めた。そしてメルボルンに飛び込んだ。

「高校の頃からいつかカフェをやりたいと思ってはいて、でも大学を出て結局はそのまま普通に企業へ就職したんだけど…」

晃平さんがサラリーマンとして、内装・空間デザイン系の会社でイベントの営業をしていた頃のこと。会社の寮で同期や先輩に「kohei's cafe」として遊びの延長でコーヒーをふるまう中で、心に抱いていた夢が少しずつ大きく膨らんでいたことに気づく。想いを同じくする仲間の後押しもあり、3年ほど勤めた会社を思い切って辞めた。

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カフェを開くなら、やはりコーヒーにこだわろう。調べていく中で、どうやらメルボルンがおもしろいという情報にたどり着く。しかし当時はエスプレッソマシンすら触ったことが無かったため、まずは鎌倉のスターバックスで働いた。1年弱で少しずつコーヒーの知識や技術もついて、資金も貯まった2013年、いよいよ夢見たメルボルンに向かう。

そこで待っていたのは、日本とは全く異なるコーヒーカルチャー。10歩あるけばカフェに当たるほど数が多く、そのどれもが朝から賑わいを見せていた。日本人がコンビニや自販機でコーヒーを買う感覚で、街の人も気軽にカフェに行って品質の高いコーヒーを楽しむ。バリスタのスキルも、街の人のコーヒーへのこだわりも、何から何まで日本とは違う。この場所でコーヒーを学べる期待、バリスタとして活躍する未来に、胸が高鳴っていた。

しかし…。

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「20歳の頃にカナダへワーホリで行ってた時のラフな感じで行ったら、1年くらい全く仕事が見つからなくて」

移民の国で人の入れ替わりが激しく、カフェでも必要とされるのは即戦力。日本のように人を育てる文化など無く、当時はまだ日本やアジア人で活躍している人も少ないという背景も重なり、どうしたって仕事が見つからない。そもそもメルボルンのカフェは、例えばバリスタの学校に通ったくらいのスキルでは現場で全く通用しないようなレベルの世界だった。

それでも仕事を探し続けてやっとの思いで、ひとまずは日本人が経営しているカフェで働けるようになる。お店が終わった後にマシンを使わせてもらって技術を磨き、ステップアップの機会を伺っていた。ある程度自信もついてきたところで、現地でも人気のとあるカフェで働けることが決まる。

「もうすっごく嬉しかった。ここまで本当に長かったから。でもまさかね…」

晃平さんが味わった、忘れられない挫折。

挫折から這い上がり、わずか半年でヘッドバリスタに。

やっとの思いで掴んだチャンス。しかし…。
晃平さんは、わずか一週間でクビになることに。
午前中だけで何百杯もコーヒーが出るようなスピード感についていくのは難しく、バリスタの代わりなんていくらでもいる世界では見切りをつけられるのもまた早い。悔しさがにじむ、とてもショッキングな出来事だった。

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「それでも立ち止まっていられないから、『Krimper』っていうカフェにレジュメを持って訪ねていって」

メルボルンでは、カフェにレジュメを持って仕事を求める人たちが、毎日のように訪れる。お店側も忙しいので読まずに放置されたり、そのままゴミ箱に捨てられたりで、最初のトライアルにたどり着くまでがまず難しい。

ガンガン自分から動かないと仕事なんて得られなかった。だから『Krimper』には翌日も訪ねて行って、「レジュメ見た?今暇そうだから見て!トライアルも今して!」としつこく食い下がった。遠慮なんかしている暇も余裕も、もうなかった。

「当時はまだ全然経験もなかったけど、とにかく「できる感」を出さないと見てすらもらえなかったから。全部俺がやるからそこで見ててと」

そしてトライアルが始まった。このチャンスを逃したら、また振り出しに戻ってしまう。

ガタガタとカップを持つ手の震えが止まらない。

その震えを必死に隠しながら、今まで練習してきたラテをつくる。ラテアートを簡単なチューリップで良いので正確に同じ形で、正確な温度でつくれるのが、まずは最低ライン。必死に、夢中で、ミスのないように、ラテをつくり続けた。

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結果は見事に採用。もちろん働くことが決まって安堵する気持ちもあったけれど、一度クビになったあの経験があるから、気を抜くことなんてできない。英語もそこまで得意じゃない中で、ここから自分の強みで生き残っていく方法を考え続けていた。

メルボルンで見つけた自分の強みは、日本人らしさだった。

「メルボルンのバリスタの中でも、日本人の真面目で気を遣えるところはずば抜けている。そこで勝負しようと思った」

人の3倍動いて、仕事も全部取って、信頼を自分の力で勝ち取って行く。挫折の経験が、たしかに晃平さんを強くしていた。それから半年後に前のヘッドバリスタ(バリスタセクションのリーダー)が辞めるタイミングで、「ヘッドバリスタをやってみないか?」と声をかけてもらう。料理とフロアとコーヒー、それぞれの部門でトップに配置される、名誉あるポジション。

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バリスタのチャンピオンがいたり自分よりスキルがあるスタッフが大半の中でも、もう迷うことはなかった。ヘッドバリスタとして、面接からバリスタのトレーニング、オペレーションの決定、出す豆の決定、豆ごとのレシピの作成など、多岐にわたる仕事を3年ほど勤めあげていく。

そうして、最初は歯が立たなかったメルボルンという世界トップレベルのコーヒータウンで、確かなキャリアを築き上げていく。今でこそ日本人バリスタは当たり前になったが、当時のメルボルンでここまでのキャリアを築くのがどれほど大変なことだったか。

そんなある日、ヘッドバリスタとして充実の日々を過ごす中で、一人の日本人女性が、あの時の晃平さんと同じように『Krimper』へレジュメを持ってやって来る。

「その時は他で決まった人がいたから、不採用にしちゃったんだったよね」

それが、瑞穂さんとの出会いだった。

海外から日本を見たら、どんな風に見えるんだろう。

「東京での芸能活動に興味があって、広島のカフェで働いたりでお金をためてた20代だったな。でも結局勇気が出なかったんだろうね」

他にもモデル業など、地元で瑞穂さんはいくつかの仕事を経験してきたが、なかなか東京進出には踏み込めないでいた。その気持ちを抱えたまま過ごすうちに、30歳を目前にして東京だけではない選択肢が自分の中で生まれてきたという。

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「通っていたワインバーで外国の人と関わることが増えて、海外に行きたい気持ちが芽生えてきて」

東京か海外かの選択。東京へは勇気が出なかったけれど、英語も話せるわけでもないのに不思議と海外は怖くなかった。ずっと東京だけを見て広島で生きてきた瑞穂さんの目には、外の世界が輝いて映った。

なんでメルボルンを選んだかというと、色んな都市のパンフレットを見る中で一番おしゃれに見えたから、それだけ。コーヒーカルチャーのことなど全く知らなかったと、あっけらかんと笑う。

「海外に行って、日本を外から見たらどんな感じなんだろう」

2013年に、メルボルンに飛び込み畑仕事をしたりしてビザを取った。街の様子を見てコーヒーのカルチャーに興味も出てきたけど、当時は日本人がカフェで気軽にはまだまだ働けなかったから、最初はパン屋さんで働いて、少しずつマシンを触ったり英語を学んでいく日々。

「コーヒーがつくれないと働けないっていうのがイヤで、あえてバリスタの勉強はせずに働いていたんだよね」

メルボルンでは転職はネガティブに捉えられないので、その後はカフェをいくつか経験しながら、キャリアを重ねていった。晃平さんと一緒で、最初はバリスタできますよ風を装いながら少しずつ少しずつ。

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「晃平にレジュメで落とされた後は、お客さんとしてお店に通う中で少しずつ仲良くなっていって」

その後距離を縮めていった2人は、ビザの期限のこともあり将来について話すようになる。

「2人で話す中で、メルボルンで好きになったこのカルチャーを、やっぱり自分の育った国でもつくりたいって思ったんだよね」

結婚するタイミングも重なり、メルボルンで出会った2人はいよいよ、育った国に帰ることに決めた。

メルボルンではなく、東京でもなく、逗子を選んだ。

「メルボルンのカフェは飽和している感じもして。だからメルボルンのようにカフェとライフスタイルが密接に絡むカルチャーを、日本でもつくる挑戦をしたかった」

晃平さんが5年過ごしたメルボルンではヘッドバリスタとして人に教える立場になっていたこともあり、バリスタとして自分の中でやりきった感覚があった。稀有なキャリアだったが、それを投げ出してでも日本で挑戦しようと思った。

日本でつくりたかったのは、メルボルンのようにライフスタイルの中にカフェが組み込まれたカルチャー。その日その時間に決まったコーヒーを飲む習慣が、メルボルンにはある。カフェでコーヒーを飲むタイミングで「今日調子どう?」と会話が生まれる。カフェに通い、会話をするという習慣が、暮らしの中で忙しさから離れる瞬間をつくっていた。

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「子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、暮らしの中で息継ぎをするように気軽に来れるカフェをつくりたい」

2017年の4月、そうして2人は自分たちのお店を日本で持つための準備を始める。瑞穂さんが鎌倉の「Dandelion chocolate」で働きながら、晃平さんが様々な場所の物件を見に行った。そして2018年5月、「BREATHER COFFEE」が誕生する。

逗子を選んだのは、街ののんびりした空気が合っていたし、忙しなく人が往来する街でコーヒーをファッション的に求められるのも違うなと思ったから。メルボルンと違って東京のカフェはルールが多くて緊張しちゃうよね、と2人は話す。
店名の「Breather」にもなっている「息継ぎ」ができるカフェ、それはまさに2人がメルボルンで好きだったカフェの形だった。

「そして息継ぎに来てくれたお客さんに、コーヒーの裏側にある農園やつくり手の想いまで、丁寧に伝えなきゃなと思っている」

コーヒーへのこだわりやスタイル、信念の部分は決して譲らない。でも日本式に合わせる部分も必要とわかってる。コーヒーについてもっと知って欲しいから、豆や淹れ方についても解説していく。抽出温度も日本人の好みに合わせて少しだけ高く設定している。

「1年半続けて常連さんも増えて、まだまだ機会は少ないんだけど自分たちの想いがちゃんと伝わった時とか、共感してくれた時は最高に嬉しい。この街でやって良かったなって」

メルボルンで培った晃平さんのコーヒー、日本に帰ることが決まってから本格的にはじめたという瑞穂さんのお菓子、そして2人と毎日会うことができるBREATHER COFFEEのお店は、今や逗子にとってなくてはならない街の風景になっている。

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逗子の暮らしの中で、カフェをもっと身近なものに。

そんな2人が、逗子・葉山 海街珈琲祭をきっかけに、街にコーヒーカルチャーをつくっていく。

「今でもまず朝の文化をつくろうと7時から開けてるけど、まだまだこれから。カルチャーをつくるために街全体で盛り上げる必要があると感じた」

仕事に追われて毎日忙しく、心にゆとりを持つことがどうしても難しい日本。でもその中でも、自分のタイミングでカフェに立ち寄って、美味しいコーヒーと会話を楽しむ余裕が持てたら、もっと力を抜いて生きることができるはず。
ゆっくりとした時間が流れる逗子の街から、そんなコーヒーカルチャーを広げて行けたら。これから海街珈琲祭を続けていくことが、そのための一つのきっかけとなるはず。

「あの時、瑞穂を採用していたら、きっとこうはなって無かったよね」
「たしかにね。あの時は悲しかったけどね(笑)」

そう言って笑い合う2人が逗子で追い求める、あの街で見たコーヒーの原風景。何年かかるかは分からないけど、この場所で挑戦を続けていく。

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オリジナルミニマグ付き!飲み比べチケット絶賛販売中です!


11月16日(土)に開催される、「逗子・葉山 海街珈琲祭2019」。

今回11もの珈琲店に集まっていただける1年に1度の機会ですので、ぜひそれぞれのお店の珈琲を飲み比べていただければと思っています。
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BREATHER COFFEE
住所:神奈川県逗子市逗子7丁目6−33 塩沢ビル 1階
営業時間:[月〜火]7:00〜18:00 /[木〜金]7:00〜18:00/[土・日]8:00〜18:00/水曜定休
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取材 / 写真 / 文 : 庄司賢吾・真帆(アンドサタデー 珈琲と編集と)






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