『街場の日韓論』の帯文について

『街場の日韓論』の帯文について

内田樹先生編の『街場の日韓論』は、幸いにして多くの読者に読まれているようですが、この本の帯にあるコピー「아이고(アイゴー)。困っています。みなさんの知恵を貸してください」で、なぜ「アイゴー」という言葉が使われているのか、疑問に思う方々がいるようです。本の内容とは直接かかわらないことで恐縮ですが、この点について、編集子より少しご説明させていただきたいと思います。

まず、この本の編集子は1960年生まれで、学生時代に韓国の民主化運動、すなわち全斗煥(チョン・ドファン)軍事独裁政権に対抗し、金大中氏の死刑執行を阻止し、民主化を達成する運動に、日本において連帯する運動の近くにいた経験があります。そして、当時軟禁されていた詩人・金芝河の詩を読み、彼の戯曲「金冠のイエス」(当時で言うところの解放の神学と韓国の民間伝承を組み合わせた、圧政に苦しむ民衆の受難劇)の、日本での上演に携わった経験があります。

そのときに編集子が覚えた言葉が「恨(ハン)」と「アイゴー」でした。
このうち「恨(ハン)」については、民族的な思想につながる大きな概念であり私の説明力の手にあまるものですのでここでは置くとして(たんなる恨み、という意味ではない、両義的な意味を持つ概念であることだけ記しておきます)、編集子のなかで、「アイゴー」という言葉は深く私の中に記憶されたものであることを記しておきます。

「アイゴー」は、当時の日本では「哀号」という字が当てられていました。「金冠のイエス」の登場人物たちも、どうしようもなくやるせない気持ちになったときに「アイゴー」と叫んでおりましたので、編集子も人間の腹の底から出てくる哀切な叫びというニュアンスで受け止めており、それゆえに自身の奥深いところに記憶されたのだと思います。

しかし、2020年代のいまにおいては、そのような理解はごく一部のもので、現代の「アイゴ」というのは、もっと日常的に、かろやかにも使われるものであるようです。「アイゴー」と低い音で伸ばすのではなく「アイゴッ」と軽く言い切る、みたいな感じでしょうか。そのことを約40年ぶりに知って、編集子のなかではこの言葉にまつわる良くも悪くも重いニュアンスが抜けたようで、なるほど時代は変わったんだ(民主化運動時代から)と実感しました。肩の力が抜けた感じでしょうか。

ここまでが、編集子の個人史的「アイゴー」理解です。

そして話は『街場の日韓論』に戻ります。
この本がどのような主旨のもとに編まれたのかについては、内田先生のまえがきに言い尽くされていますので(http://blog.tatsuru.com/2020/04/25_1215.html)、そちらを読んでいただければと思いますが、それを受けて、帯文を担当する編集子が考えたのは、この本を日本だけでなく、韓国の人々にも関心を持っていただきたい、読んでいただきたい、そのための道筋をつけておきたい(たとえば翻訳につながるなど)、ということでした。

編集子はもちろん、寄稿者のみなさんは、昨今の日韓の関係悪化を、他責的な言葉で語るつもりはありませんでした。そうではなく、わたしたち民衆自身の問題として認識し、そのうえでどう振る舞うべきを、悩みながらも考えたいという思いでいました。

それと同時に、韓国の民衆にも「日本にも政治的な事情による日韓の関係悪化を憂いている人々がおり、その人々が二国間の関係を良好なものにしようと模索している」ということを知ってもらいたかった。
そのためには、彼の地の人々にも伝わる言葉が必要だった。その思いのなかで、まずしい編集子のボキャブラリーにあったのが「アイゴー」だったというわけです。

冒頭に「アイゴー」を持ってきたのは呼びかけで、そこで伝えたかったのは「私たちも困っている。だから手を貸してほしい」というメッセージです。政治的な理由で関係が悪化しているけれども、そのおかげで私たちも困っている。だから、私たちは私たちなりのやり方で、それを解決しようと模索している。ついては、韓国のみなさんからも知恵を貸していただけるとうれしい」という意味において、考えられた帯文でした。やはこしい文脈なので、なかなか理解いただけないかもしれないですが。

いまの状況において、帯文の冒頭にハングルを持って来れば、それだけでさまざまな反響を呼ぶものであることは理解しています。当然、ネガティブな反応もあると思います。
しかし、「困っています。手を貸してください」というメッセージを伝える際に、「やれやれ」でもなく「マイッタマイッタ」でもなく、編集子は「アイゴー」を選びました。ほんとうに困っている、というニュアンスを伝えるのに、その言葉が一番フィットすると考えたのです。その選択肢の裏には、上記のような事情があることをご理解いただけるとさいわいです。いや、そのような編集子のややこしい思いなどスルーして、内田先生はじめ、寄稿者のみなさんの素晴らしい論考を読んでいただけるのであれば、これほどうれしいことはありません。よろしくお願いいたします。


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