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おまんじゅうアイデンティティ

 僕のおじいちゃんは和菓子職人だった。僕が小学生の時にもう亡くなっているので、「だった」と書いている。岐阜県恵那市の中山道の宿場町である大井宿で、小さいながら自分の店を経営し、生涯現役だった。3人の子供に大変だから後は継がなくていい、と言っていたようで、おじいちゃんの死と共に和菓子屋は無くなった。

 僕は子供の頃から、沢山のまんじゅうを食べてきた。おじいちゃんと一緒に暮らしていたわけではないが、車で1時間ちょっとの距離だったので交流は多くあった。
 おじいちゃんのまんじゅうは派手ではなく素朴で優しい味。おはぎも美味しかったし、名物の栗きんとんは絶品だった。栗きんとんは高級なお菓子の部類だが、幼くして高級菓子を山ほど食べていたのは僕の自慢の一つだ。正月のお餅は勿論、自家製だった。鏡餅もヒラ餅も全部おじいちゃんの手作り。
 極め付けは「朴葉寿司」。朴の木の葉に酢飯と色々な具材を包んだ郷土料理だが、蜂の子の佃煮が包まれているのが特徴だった。蜂の子もイナゴも食べて、今を時めく昆虫食グルメも楽しむとは何ともサラブレッドな経験だったように思う。そんなグルメが身近に溢れていて、僕は抱えるようにおまんじゅうを食べていた。美味しいもの好きなのも料理好きになったのも必然だったように思う。

 おじいちゃんが亡くなってから、少し縁遠くなっていたが、そんな「おまんじゅう」に対して、気持ちが高まる瞬間がここ10年で何度かあった。それはいつも海外に滞在している時だった。


 日本に居ると、日本文化は空気のように当たり前のものであり、自分が和菓子と強い結びつきを感じることもない。おまんじゅうなんて作ることはないし、日常的に食べることさえそんなにない。
 むしろ僕は、カレーなりタコスなり、自分の海外経験を生かして「周りのみんなが作れない料理」を作り続けてきた。イタリアンでバイトしてた時は手打ちパスタを作ってルームメイトに振る舞い、スリランカ帰りには間借りカレー屋を始め、メキシコ帰りにはタコスパーティを開いてきたわけである。それが高じて、「カレー」というアダ名をつけられたり、「パーティで料理作ってよ!」なんて言われているうちに、そういった部分が自分のアイデンティティになっていったように思う。それが僕のキャラなのである。しかし、海外に居ると話は別である。

 ワーキングホリデーでカナダにいた時の話。たとえ僕がめちゃくちゃカレーが好きであっても、カナダのカレー屋では日本人の僕が働く隙はなかった。多国籍移民国家であるカナダではインド人はカレー屋で働き、韓国人はコリアンレストランで働き、ケバブ屋ではギリシャ人なりトルコ人が働いているのをよく見かける。厨房の裏で現地語で喋ったりしながら、彼らは異国に存在する祖国料理のレストランにてコミュニティに属しながら生活を営んでいるのだ。
 僕も結局は中国人の経営する寿司屋と、日本人二世が営むフルーツジュース屋でバイトすることになった。日本人は異国において、どこまで行っても日本人だ。そんなこんなで、異国の地で、日本ですらバイトしたこともないクラシックスタイルの寿司屋で毎日働き、ある日ふと思ったのである。「ああ、そういえば、僕は和菓子職人の孫だった。」と。
 なぜ異国の地にて、和食を作っているのは中国人で、日本人の僕が英語で注文を取る役目なのか。なんともあべこべな空間の中で、「俺が日本人なのにな」と思ったのだ。おじいちゃんが和菓子職人だと言いながら、おまんじゅう一つ作れないとはなんとも変な話。僕は異国の寿司屋の中で、日本人の役目を果たせていないように感じた。そんな最中も中国人シェフは食後のスイーツで餡菓子を器用に作って提供していた。

 次はメキシコに滞在したときの話。
メキシコには、僕は"メキシコの伝統的食文化とアイデンティティ"について卒論研究をすべく数ヶ月滞在していた。無形文化遺産にも認定されているミチョアカン州の伝統的食文化について、片田舎の村でどのように伝承されているのであろうか、どのような想いの元で消費されているのであろうか。そんなことを考えていた。ミチョアカン州の伝統的な軽食、ウチェポスやコルンダス(両方ともフレッシュコーンを使った蒸しもの)を作る若い奥さんに、料理をご馳走になりながら、インタビューを重ねた。僕はメキシコ料理にとにかく興味津々で、特にトウモロコシの芯を蒸し台にしてトウモロコシの葉にトウモロコシの生地を詰める素朴な料理に夢中だった。


 そんな中、メキシコ人主婦に「耕史にとってのウチェポスは何?作ってよ!」と言われた。僕はちょっと考えたが、きっとそれは「おまんじゅう」なんだと思った。僕の実家は和菓子屋。でも、作ったことがないんだ。おかしいね。こんなにメキシコの伝統食に傾倒しているのにね。そんな会話をしたことを覚えている。おまんじゅうを説明しようとして、traditional japanese sweets、と訳して伝えるたびに、伝統ってなんだろうと考えさせられたりした。

 最後に南インドを縦断した時の話。
僕の職業はついに料理人になっていた。毎日カレーを作っているなかで、もっと勉強したくてインドを訪れたのだ。インドの人はみんな、そんな僕の発言を快く受け取り、家庭のインド料理を教えてくれた。インドではどんな料理も家庭ごとにスパイスの配合が違い、それが一子相伝で代々受け継がれている。そんなレシピを僕は学んだ。
 でもある日、日本人である僕に「なんで日本食を作らないの?インドでも人気があるからインドが好きなら、ここで日本食レストランしたらいいじゃない」と言う人がいた。いつか言われる気がしていたセリフだ。そして本当にそうだと思う。インドで商売をして、生きていかなきゃいけなくなったらその方が成功するかもしれない。日本人である僕は、異国の地において日本人であること、日本人だからできること武器にすることがきっと普通なのだ。そして改めて、「そういえば、おまんじゅう作れないままだな〜」と思った。

 日本にいる時と日本にいない時で自分の拠り所になるものは違う。僕は海外にいるとどうしようもなく日本人であることを強く自覚させられ、「おまんじゅう」のことを強く思い出す瞬間に立ち会う。その時は「帰国したら和菓子の一つでも勉強し、海外でお世話になった人に今度はご馳走してやろう!」と思いながら、帰国する。しかし日本に帰ると今度は身の回りの日本人に対して、「勉強してきた海外の料理を食べさせてやろう」とスイッチが切り替わってしまう。気がついたらおまんじゅうのくだりをすっかり忘れている。そしてそれを繰り返しているのだ。

 今のところ、日本にいながらにして、そんな「おまんじゅうアイデンティティ」が発動されることはない。そんなに縁がありながらも作れないままの料理も珍しいように思うが、逆に近すぎるものほど意外に手が届かないのかなと思ったりもする。自分の国の文化というのはそんなものなのかもしれない。
 タコスも捏ねて、パスタも手打ちし、チャパティを焼いても、何故かおまんじゅうは捏ねないままの僕だけど、いつかそのうち、日本に居ながらにして取り憑かれたようにおまんじゅうを作り始める時が来るんじゃないかと、なんとなく思う。それは大分先な気がしているが、いつか絶対くるように感じる。そして、何故だかそのスイッチが入る瞬間を楽しみにしている自分がいるのだ。

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