小説『ボールペン』
目が痛い。
ディスプレイの右下の時間表示を確認し、俺は深いため息をついた。23時13分だ。
広い部屋の、ほとんどの照明が消されている。光っているのはこの辺りだけだ。顔を上げると、誰も居ないデスクの列が遠くまで延々と並んでいるように見え、気分がより一層重くなる。
「丸山君、終わりそう?」
俺のため息が聞こえたのか、隣の席の早瀬さんが声をかけてきた。
「はい。まあなんとか、って感じっすね」
「よかった。今日も日付変わる前に帰れそうだね」
そうっすねーと答えながら、本当はとっくに帰っていたいんだけど、と思う。
早瀬さんはいつも楽しそうでいい。だからといって、こちらも楽しくなれるかといえば、そんなことはない。
このチームは4人だ。上司の安田主任、リーダーの早瀬さん、俺、後輩というメンバーだ。ただ、主任はかなり忙しく、姿を見かけることはほとんどない。週一の進捗報告会で声を聞く程度だ。当然、今日も別の現場に居るようだった。そして後輩の友永は、新人だからという理由で早瀬さんが定時で帰らせた。つまり、今オフィスのこのフロアに居るのは俺と早瀬さんの二人だけだ。
「そうだ、丸山君。明日の会議の発表よろしくね」
「あ、はい」
「資料、上手くできてたから大丈夫!」
「ありがとうございます」
そういえば、資料はちゃんと印刷していたっけ、と思い立ち、自分の机の上を見回した。
汚い。ごちゃごちゃしている。休憩時に食べるための菓子、空になった缶コーヒー、ごくたまに使うノート、付箋の塊、書類の山。
紙をかき分けて、目的の資料を探す。なんとなく、早瀬さんの視線を感じる。けしてそちらには顔を向けないように、捜索を続ける。
山の下の方にあった紙束を掴み上げると、それがまさしく明日の会議の資料であった。よかった。ちゃんと必要な部数分ある。
資料を見つけた拍子に、何か小さいものがコツンと落ちたような音がした。しかし、そんなことはどうでもいい。作業はだいたいキリの良いところまで終わったし、資料だけ引き出しの分かりやすいところに置き直して、今日はもう帰ろう。
PCをシャットダウンし、少し机を片付ける。早瀬さんに挨拶して、そそくさと会社を後にした。
なんとか日付が変わる前に電車に乗れた。家に着くのは明日だが。
つい8時間前にこれと全く逆方向の電車に乗っていたな、と眠気が残る頭で考える。昨晩は、帰宅するなりシャワーを浴びて、すぐに寝た。疲れは全然取れていない。
幸い、今朝は乗車してほどなく座れた。座ってから数駅過ぎたところで、頭が重くなってきた。
職場に着くと、始業15分前だったが、すでに早瀬さんと友永が来ていた。この2人はいつも早い。
念のため、午後イチの会議に向けて、昨日見つけた資料の最終確認を軽く行う。内容はおおむね問題なかった。
ただ、1つだけ気になる箇所があった。わざわざ印刷し直すほどのものでもないため、原稿代わりの自分用の資料にメモ書きを追加することにした。
しかしここで、困ってしまった。書くための道具がない。俺が持っている唯一の筆記具、どこで買ったか思い出せない80円くらいの黒の油性ボールペンが、全く見当たらないのだ。持つ部分が少しすすけていて、クリップには小さい傷がついている、あのボールペンが。
ふと、音のことを思い出した。会議資料を見つけ出したときの、何かが落ちたような音だ。あのとき落ちたのはボールペンだったのではないだろうか、という気がした。そういえば、硬いところに当たったような響きだった。脇に置いてあるゴミ箱だろうか。
俺のデスクは、デスクが連なった島の端に位置していて、俺の左側が早瀬さん、右側が通路だ。その通路に、ジャマにならない程度のこぢんまりとしたフタのないゴミ箱が設置されているのだ。
灰色で円柱形のゴミ箱を覗いてみると、中身は空っぽだった。そういえば、このフロアはたびたび早朝に清掃が行われているようだから、偶然今朝中身を回収されてしまったのかもしれない。
「ゴミ箱だと思ったんだけどな……」
つい、ひとりごとを言ってしまった。早瀬さんの顔がこちらを向いている。
「何か探してるの?」
「ああ、いや、ボールペンなくしちゃって」
手短に状況を説明すると、早瀬さんは「ドンマイだねぇ」と言いながらボールペンを貸してくれた。必要なメモを素早く資料に書き加え、礼を言って返した。
昼休み、いつも利用する最寄りのコンビニへ向かった。弁当のついでにボールペンも買った。会議で書くものがないのはツラいだろう。黒いボールペンは、しょっちゅう使うものでもないが、無いと困るのだ。
午後イチの会議は無事に終了した。
昼に買ったボールペンは、そういえば150円もしたが、なかなか書きやすく、実は会議中に小さく感動していたのだった。そして、柄にもなく、この新しいボールペンとの出会いに感謝の念すら覚えた。それほど使い心地が良いのだ。
今朝ボールペンをなくしたときは、ツイていないと思ったが、これはこれである意味ラッキーだったのかもしれない。随分ささやかなラッキーではあるが。
翌日出勤すると、俺のデスクの真ん中に、なくしたはずのボールペンがあった。はじめは見間違いかと思ったが、しかし、手に取ってじっくり見てみても、それはやはりあのボールペンそのものだった。すすけ具合や小さな傷が、その証拠だ。うっかり捨ててしまったというのは勘違いだったのかもしれない。
どうせ出てくるなら、昨日の昼前だったらよかったのに。今はもう、これよりだいぶ書きやすいボールペンを手に入れてしまった。
俺は、まだ半分ほどインクが残っているように見えるその80円の油性ボールペンを、デスク横のゴミ箱に投げ入れた。コツンと音が鳴る。妙に、聞き覚えがあるような気がした。
その晩は、珍しく夢をみた。恐らく、それは悪夢であった。
最初は、夢の中の俺が夕食をとろうとしていた。コンビニで買った惣菜と、冷凍してある白飯は既にレンジで温められ、準備万端か、というところだった。
ふと、箸が出ていないことに気がついた。食器棚の引き出しから箸を持ってきて、さあいただきます、の瞬間、指に違和感が生まれた。親指と人差し指の間にある物が妙に太い。そして、角が取れ、丸くなっている。それは箸ではなく、2本のボールペンであった。すすけも傷も、まさしく俺が捨てたあのボールペンだ。
「ウワァ」夢の中の俺はマヌケな声を上げ、ボールペンたちを落とした。床には厚めのカーペットが敷いてあるのに、コツン、と硬い音がした。
次の場面では、俺は自宅のドアの前に居た。少し冷たい風を頬に感じる、気持ちの良い朝だ。これから仕事に向かうようだ。鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとする。しかし、うまく入らない。
しばらくじっと鍵を見ていると、様子が変わってきた。差し込む部分が伸び始めたのだ。そして鍵の全長が十五センチほどになると、止まった。にぶい銀色は段々と透明になり、平たい形状は丸みを帯びやがて細い筒になった。ボールペンだ。またあの80円のボールペンだった。
そして、気がつけば、俺は洗面所で歯を磨いている。また場面が変わったようだ。
先ほどの夢の断片たちのせいで、俺はすっかり怯えていた。
分かった、歯ブラシだ。きっとこの歯ブラシが、そのうちボールペンになるんだろう。どうせそうだろう。そう考えて、歯磨きを中止しようとする。しかし、どうしても右手が言うことを聞かない。頑なに磨き続けている。
案の定、歯に当たるブラシの感触が変わり始めた。柔らかい毛が、少しずつまとまりだし、やがて硬くなった。つるつるした部分とそうでない部分が交互に触れる。これはペン先だ。しかも、芯が出ている。
ときどき歯茎に芯の先が当たってかなり痛い。それでも右手は止まろうとせず、むしろ動かす力がどんどん強くなっている。
正面にある鏡を見ると、歯が汚れていくのが目に入ってきた。油性ボールペンのインクが、俺の歯を黒く塗りつぶしていく。鏡の中の俺は、泣いていた。
ボールペンは、何度も何度も夢の中に現れた。紙パックのジュースを飲めばストローがボールペンに変わり、駅で定期券を取り出そうと鞄に手を入れればボールペンを掴み、仕事をすれば右手の中のマウスがボールペンになった。スマホが、テレビのリモコンが、マドラーが、洗濯ばさみが、イヤホンが、判子が、道を歩く犬が、話し相手の人が、全部全部あのボールペンになった。俺の脳が、ボールペンで埋め尽くされていった。
ようやく目を覚ました俺の身体は、汗ですっかり濡れていた。
枕元でけたたましく鳴るスマホのアラームを止める。思わず、そのままスマホをしばらく見つめたが、特に何かに変身する様子はなかった。
そりゃそうだ。これは現実なのだ。しかし、少し安心した。とりあえず、汗の不快感を拭うため、シャワーを浴びることにした。
キッチンで適当に朝食をとる。仕事に向かう準備を済ませ、いざ出発というところで、目に入ってしまった。
部屋の中央にある背の低いテーブルの、さらに真ん中に、それはあった。
嫌になるほど見慣れた、ボールペンだった。少しすすけて小さい傷がある。紛れもなく、昨晩俺が会社のゴミ箱に捨ててきたはずの、あのボールペンだった。どうしてここにある?俺の家の中に?
これも夢なのだろうか。俺は、まだあの悪夢の中に閉じ込められているのだろうか。
気づけば俺は、その場所にへたり込んでしまっていた。鞄に入れたスマホが振動する音で正気を取り戻すまで、しばらくそうして動けないでいた。
早瀬さんからラインに連絡が来ていた。「今日来れそう?大丈夫?」とあった。改めて時刻を確認すると、今は10時15分だった。既に45分の遅刻だ。
謝罪と、今から向かう旨を返信し、なんとか立ち上がる。
どうやら、これは夢ではないようだ。テーブルの上に居るボールペンは、会社に持って行くことにした。このまま自分の家で放っておくのがなんとなく怖かったのだ。俺はふらふらした足取りで、玄関へ向かった。
「本当に大丈夫?顔色悪いけど……」
俺を一目見るなり、早瀬さんがそう言ってきた。「全然大丈夫です」と作った笑顔で答え、自分の席に着いた。チラッと目に入った、向かいの席の友永も、心配そうな顔でこちらを見ていた。
人から指摘されるとは、よっぽど青い顔をしていたようだ。
どうにも仕事が手に着かなかった。家から持ってきたボールペンの存在が、つい気になってしまう。
ボールペンが、たった今この瞬間、俺の鞄の中で、こっそり増えてゆくのを想像する。いや、本当は想像したくないのに、勝手に頭の中でイメージが作り上げられてしまう。
魔法のように、ボールペンが縦に伸び、そこからバツン、と分裂して新しいボールペンが生まれる。2本になったボールペンは、それぞれが縦や横に伸び、そしてちょうどいい頃合いでまた2つに分かれる。ボールペンは倍に倍に増殖して、やがて鞄の容量を超えそうな数になると、内側からガタガタと鞄を揺らし、小さい隙間から外に飛びださんばかりに、何本かがペン先を突き出し始める。
俺はいてもたってもいられなくなり、鞄を開けた。
鞄は、いつも通りの様子で口を開けた。しばらく見ているうちに、頭の中を埋め尽くしていた恐ろしい想像は、ゆっくりと消えていった。
少し深呼吸をして、鞄の中を詳しく確認する。財布やら名刺入れやらをかき分けると、たったひとつのボールペンが、何食わぬ顔で底に転がっていた。
右手でボールペンを拾い上げる。改めてまじまじ見ると、本当に何の変哲もないボールペンであった。
俺は一体なにをやっているのだろうか。よくよく考えれば、いつの間にか長く使い続けているだけの、たかだか80円のボールペンに、俺は今異常に怯えているのであった。
そうだ、いっそ使い果たしてしまえばいい、という考えが、俺の中でひらめいた。まだ半分ほど残っている黒インクが出なくなるまで、完全に使い切れば、どうにかこの、まるで呪いのような奇妙な状況から抜け出せるのではないだろうかと思い至ったのだ。
それから俺は、件のボールペンを肌身離さず持ち歩いた。何か少しでも紙に文字を書く用事があったら、このボールペンを使って書いた。大して書く必要がなさそうなときにも書いた(このボールペンの代わりに買った、書き心地のよい方のボールペンはいちども使わなかった)。少しずつだが、インクの残量は短くなっていった。
悪夢を見てから3ヶ月ほど経った頃、ようやくボールペンのインクを使い切った。あれから同じような夢は二度と見ていない。
黒い部分がなくなり、透明になった芯を見ると、すがすがしい気持ちになった。インクが出なくなったボールペンに対して、こんなに嬉しい感情を抱いたのは、生まれて初めてかもしれない。
例のごとく今日も残業だったが、俺の心は軽かった。
ようやく使い果たしたのだ。きっと、今度こそちゃんと捨てられるだろう。
帰り際、デスク横ではなく、フロアの入り口にある大きなゴミ箱に、80円のボールペンを放り込んだ。他のたくさんのゴミの中に、ペンが沈んでゆくのが見えた。もうあのコツンという音は聞こえなかった。
次の日の朝、出勤した俺は、自分のデスクを一目見て安心した。デスクの上に、何度も何度も目に入ってきた、あのボールペンは居なかった。ようやく解放されたのだ。喜びのあまり、席に座った俺はしばらく放心状態になっていた。
なんとか心を仕事に戻す。作業を進めていると、ふと、手書きでメモを取りたくなった。最近ずっとボールペンを使っていたからか、癖になってしまったようだ。コンビニで買ったボールペンは、確かデスクの左側の引き出しに入れていたはずだ。
引き出しの下に指をかけると、妙な違和感があった。かなり重みを感じる。そして、少し力を入れてみても、引き出しはびくともしない。何かが中で詰まっているようだ。
苛々しながら、力任せに引っ張った。
バン!という音とともに、何かが引き出しからはじけ飛び、床に散らばった。
夥しい数の黒くて小さくて細い棒が、目に飛び込んできた。
芯だ。それらは、あの80円のボールペンの替え芯であった。薄く広い引き出しを埋め尽くし、さらに溢れ出している。端にあった何本かが、ポトリポトリと落ちてくる。俺には、そのひとつひとつが蠢いているように見えた。まるで虫だった。
早瀬さんがこちらに向かって何か言っているようだ。しかし全く聞こえなかった。俺の意識は、黒々と輝く芯の海に浮かぶ、空っぽの、あのボールペンに奪われていた。また目の前に現れた。また捨てられなかった。これから俺はどうすればいいのか。
「丸山くん!丸山くんってば!!」
早瀬さんの怒鳴る声が聞こえてきた。
気づけば俺は、その場から飛び出し、走り出していた。フロアの重い扉を必死に押し退け、転がるように非常階段を駆け抜けていた。
行き先はわからない。もう、何も考えたくなかった。
ただ、あのボールペンの居ないところへ行きたかった。
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