成田闘争と「水」問題

隅谷三喜男『成田の空と大地』(岩波書店、1996年)は、成田空港建設にともなう強制土地収用問題をきっかけとして起きた反空港運動と政府との対立から和解へと向かう会議の記録である。

若い世代はもはや成田空港闘争を知らない人も多いかもしれない。

それまで使用していた羽田空港では航空機発着増加に対応できないとして、1962年に新空港建設が閣議決定され、1966年に千葉県の現在の成田空港のある地域が候補地として決定された。その予定地では、地元の農家が生計を立てていた。事前の打診はなく、空から降ってきたような頭ごなしの決定であった。当初は反発した農家もかなりの数が用地買収に応じた一方、一部の強く反発した農家が反対運動に突き進むことになる。ちょうど左翼運動が盛んであった時期でもあり、反政府運動と相まって反空港闘争は大規模化し、国と衝突、結局この本の著者隅谷三喜男氏を座長とする連続的な会議とシンポジウムが開かれる1990年まで、国との対立構造は続くことになった。

今では想像がつかないかもしれないが、私が子供の頃までは、成田空港は過激派のテロに備えて警備は厳重であり、実際に、空港に爆発物が投げ込まれるといったニュースはときおり流れていたと記憶する。

隅谷三喜男氏は東京大学の経済学教授を務めた人であり、政府の委員会等で霞ヶ関とのやりとりも多く、その関係から当時の運輸省の事務次官から座長を依頼されたとあった。それまでは、成田闘争に関しては特にかかわりもなく、またそんなに多くのことを知っていたわけではなかった、と記述されている。本文では、空港用地選定から成田闘争に至るまでの記述は、理路整然としていると同時に「農民」に対して非常に同情的であり、国との対話に臨んだ反対同盟熱田派に最大限の配慮をしていることが強くうかがえる。確かに、国、反対同盟双方から承認された事実検証からすれば、明らかに国側に非がある。

時系列を追っての事態の経過を見てみると、国の頭ごなしの決定にはじまる一連の経過は、地権者の農家にしてみれば、急転直下という語がふさわしい事態の急変ぶりである。晴天の霹靂で、自分の土地から出て行けと言われれば、抵抗を感じない人の方がいないと言っていいだろう。このような状況において、黙っていうことを聞け、と言わんばかりの態度を取り続けた国のやり方がまずかったのは明らかである。衝突が拡大していく中、1971年に地元農家の反対派の青年が抗議自殺することになるが、亡骸をおろしながら引き返せないところにきてしまった、と述懐する、当時青年であった反対同盟の仲間の心境記述は痛ましい。人生をこんなことに投じる気はなく、またそうしたいわけでもないのに、激動する状況がそれを許さず、否応なく引きずり込まれていく。これからの人生をこのために費やすことが決定づけられることを理解しながらも、そこから抜け出すことはできない。これさえなければまったく別の平凡で穏やかな人生を送れたであろう未来ある青年が、思い望んだ未来を捨てざるを得ないことを覚悟する。その痛みは、社会の激動の渦に巻き込まれた人間にしかわからないものがあるだろうと思う。また、直接的な交渉相手とはならなかったものの、県の腰の定まらない、他人事のような姿勢も事態を悪化させたこともうかがわれる。

反対運動にもかかわらず、空港建設は強行され、開港される。だが、長く続く反対運動によって、当初、国が想定していただけの空港機能を持たせることはできなかった。そこでにっちもさっちもいかなくなった運輸省が協議の場の差配を隅谷氏に依頼したというのが、この一連の会議の端緒であったようだ。闘争が悪化してから、実に、25年が経過している。座長であった隅谷氏の明晰、かつ情理を尽くし、腹の座った差配ぶりも見事であるが、国、そして反対同盟も途中で投げ出さずによく最後まで協議を続けた、と大いに感心する。なんとしても和解に持ち込みたいとの思いが、双方に強くあったのであろう。ただ、四半世紀におよぶ闘争がなければ、国側が協議のテーブルを用意できなかった、ということに対して、やりきれなさも感じる。空港設置を決める前に、農民側と事前に十分な時間をかけて協議をしておけば、開港まで時間がかかったではあろうが、その後の25年にもおよぶ闘争は起きなかったであろうし、また、最終的には、成田空港はもっと早くに拡張整備ができたかもしれない。当初、10年の時間をかけて協議しておけば、その後の25年が失われることはなかったのではないか。結局、成田空港はその後の滑走路を拡張するのに時間を要し、世界のハブ空港となることはできなかった、との関係者の述懐を別の記事で見かけた。短い期間での目先の成果を追求したために、多大なる長期的な混乱を生んだ挙句に、当初の見込み通りの成果を得ることもできず、さらなる大きな魚を逃した、と言えるかもしれない。

もちろん、私はこれを東京電力福島第一原子力発電所の「水」問題と重ねながら考えている。生業の根底に影響を及ばされる被害を長期に渡って受け続ける層が一定数確実にいるという面から、成田空港の土地収容問題と「水」問題は、構造的に非常に似通っている。成田空港がそうであったように、世論の大多数は、ことが決まれば容易に忘れ、それでよしとするであろう。だが、生業の根底から脅かされる層にとっては、世論の大勢がどうであろうが関係はない。この問題は、世論調査の賛成、反対の数値だけを見て考えていると、状況の帰趨を大いに見誤るタイプの問題である。もちろん、高度成長の軌道に乗り、人口が拡大に向かっていた成田空港建設当時と、その逆に、経済が衰退し、人口減少に向かう現在において社会状況は大きく違う。だが、生業に根底から影響が受ける層がいる限りにおいて、政府は、長期に渡ってこの問題と向き合い続けねばならないことは共通している。成田空港が存在し続ける限りは反対運動と向き合わねばならなかったように。

私は、しつこく協議の場の設定を主張し続けているが、結局、決定前に時間をかけて一定程度の合意を得ておく方が、最終的に、双方が負う傷も、事態の鎮静化にかかる時間もコストも少なくて済む、と思っているからだ。一度、協議の前提となる信頼が崩れれば、その後、再協議を行おうとしても至難を極めることとなる。武力衝突まで起きた成田では、協議を行えるようになるまで四半世紀を必要とした。そこで失ったものの大きさを考えれば、最初に立ち止まって協議しておく方が遥かに賢明であったと考えるのは、当然の後知恵であろう。歴史に学ぶ、というのは、たんに書物を読んで歴史のお勉強をするということではない。過去の教訓を現在の自分の振る舞いにいかに生かすことができるか、だ。

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