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福島復興あれこれ:国際研究(教育)拠点のこと

福島にできる予定の国際研究(教育)拠点は、朝日新聞のこの記事に経緯がふれてあります。

迷走している理由は、いくつもあるのですが、結局、最終的には地元側がこれを利権としかみなしていない、というところに帰着すると思います。
もちろん、国が明確な指針を打ち出せず、省庁間の縦割りのなかで、しっかりしたビジョンを打ち出せないから、地元側の思惑ばかりが前面にでることになった、という経緯ではあります。

なんでもそうですが、省庁間をまたぐ調整が必要なプロジェクトについては、政治的な差配が入らない限りは、省庁間の縄張り意識といろんな方面からのご要望を汲み取って総花的(といえば聞こえがいいですが、なにがしたいのか意味不明)なものになりがちです。
拠点の状態はまさにこれで、これでもかというくらいにいろんなものが詰め込まれているわりに、なにがしたいのかはよくわかりませんし、話がなかなか進まなかったのは、国政側の政治的なハンドリングが入らなかったためでしょう。

国が予算を全額負担するということですが、国側にはビジョンを打ち出す気もないですし、継続的な運営に力を入れるつもりはありません。とりあえず、「福島復興」は国策ですし、拠点を作ることは政権公約になってしまっているので、作らないわけにはいかない、というだけだと思います。
地元側は、予算負担がゼロですからこれに食いつく人たちはたくさんいるのですが、とはいっても、地元側にもビジョンはもちろんのこと、マネージする能力はありません。
誰ひとりビジョンをもたず、また、責任を負ってマネージするつもりがないのに、利権を得たい人だけはごまんといる、そこにそれぞれの設立背景が違う既存の組織が統合される、そのうえ、「国策」なので失敗は許されないという強力なプレッシャーはかかる、恒常的な予算の目処はない、という新組織になにがおきるか、その後がどうなるか、というのは、組織マネージメントに少しでもかかわったことがある方なら、想像はかんたんにできるかと思います。考えるだけでもぞっとする、おそろしい状態だと思います。
設立の予算はあっても、運営のための予算の目処はついていないのです。
ふつうに考えて、まともな運営は無理だと思います。

私としては、福島の原発事故が将来になにかを残せるとしたら、この国際研究拠点だけだろう、と思っていたので、本当に残念です。
長期にわたって影響を受け続ける原子力災害後には、知識や歴史や人間関係を蓄積できる第三者的な拠点があったほうがよいに決まっています。(大学も、研究者は個人プレーが基本ですし、また移動することが多いため、蓄積には向いていません。)
とはいっても、なにか華々しいことをせずとも、国際的な連携ができる部署を作り、あとは既存組織の連携をはかりつつ、実直に積み重ねていけば、それはそれで意味あるものができたのではないかと思うのですが、残念ながら、本邦はそうはならないようです。

私も福島に関連して海外での発表をよくさせてもらってきましたが、どういう切り口であれば、海外の関係者の関心を引くことができるかについては、いつも考え続けてきました。
「福島」だから関心を持ってもらえるかというと、事故から最初の数年はそうでしたが、その後はそんなことはまったくなく、事故から10年を経て、もともと関心が減ってきていたところに加えて、環境問題、コロナ、ウクライナと続き、国外の放射線防護の専門である私の友人たちでさえ、そちらに関心は一斉に向いています。

そんななか、国外との連携を拠点として行い続けるとするならば、これまでの信頼関係や人間関係を大切にして、国際的な関心動向をよく観察してそれに対応しつつ、それでいて、ローカルな視点の継続も怠りなく行う、というかなり難しい舵取りをしなくてはならないことになります。
残念ながら、様子を見ていると、そんな采配の難しさを考えた上で、設立・運営していこうと考えている人は皆無で、みな誰かがどうにかしてくれるのだろう、国が予算出してくれるんだし、としか考えていないことがありありです。

地元側にも、こんな将来を作るために、こんな施設にしたい、こんな施設が必要だ、というビジョンは一切なく、工場を誘致する感覚で、人口対策、職場対策、経済対策としか思っていないようです。
これだけ研究世界の競争が激化している中で、そんな動機で研究施設を設立して維持できると思っているあたり、がっかりをとおりこして、この程度の見識なんだな、とすっぱりと諦める気持ちになりました。
自分達の見識や能力以上のものを生み出すことはできない。これが、いまの私たちの住む地域の実力なのでしょう。

これが11年目の福島復興の現在地だとすると、さびしいことこの上ありませんが、行政や国になにかを期待していたのがまちがいだったのかもしれません。
そもそもでいえば、行政ルートで何十兆円という復興予算が流され、なにかをすればたちまちメディアの注目を浴び、一挙に名声を獲得、なにかするごとに褒め称えられ、国内外の著名人からも称賛される、そういった状態で、堅実な復興を行おうという感覚を維持できると思うことがまちがいだったのだろうと思います。

かえすがえすも残念なことです。

※読み返してみて気づきましたが、この状態は、福島事故の国会事故調で事故の原因として指揮された「集団浅慮」そのものですね。
地元側にさえ、誰ひとり、原発事故の教訓を生かそうと思っている人なんていないということなのでしょう。

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