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雑感:戦争の熱狂と過去

世界の関心はウクライナ一色で、メディア空間はその話題でもちきりだ。私のnoteもウクライナのゼレンスキー大統領のドイツ演説についての記事がいちばんアクセスが増えているので、どこでもきっとウクライナ関係の話題がいちばんアクセス数が伸びているのだろう。

戦争はインテリを熱狂させるものなのだ、と思いながら眺めている。退屈な日常の世界に突然あらわれた非日常の世界に高揚し、また、政治や背景など知識人にとって関心の高い議論材料には事欠かないし、戦局が動くごとに景色も変わるので、いくらでも夢中になって語ることができる。そして、これから訪れるだろう社会の変化への期待と皮算用、機に聡い人にとっては利を得る絶好のチャンスだ。
社会の停滞に倦み、飽きた人びとにとっては、起爆剤のようにも思えるし、突破口のようにも思える。戦争とはそういったものなのかもしれない。

これが自国の直接かかわる戦争であるならば、なおさらだろうから、日中戦争の時期の文化人の雰囲気もおおよそ察しがつく。
大学の卒論で中原中也をとりあげたのだけれど、その時に、中也の日記を読んでいた。この日記がおもしろくて、中也の詩よりおもしろいといったら言い過ぎだけれど、当時のインテリ階層の空気感が感覚的につかめて興味深い。中也が死んだのは、1937年。日中戦争の始まる年だ。戦争について触れてある箇所はほとんどなかったと思うけれど、開戦前夜のどことなく高揚した雰囲気は伝わってきた。
あの時、中也と同じグループだった小林秀雄はなんと言っていたんだっけな、大岡昇平はどうだったっけ、とふと遠い記憶をぼんやりと手繰り、彼らも、現在のインテリと同じようなものだったのだろう、と思う。

ハンフォード・サイトのことを調べている関係で、日米戦争の関連の本を読んでいて、戦時色、戦時と平時の違いについても考えている。いまは、日本も紛れもなく戦時に突入しており、平時とは違う感覚であることには自覚的でありたい。

ハンフォード・サイトの建設された砂漠の荒野には、サイト建設以前に、ほとんど人は住んでいなかったと聞いていた気がするのだけれど、そんなことはなかった。

地元のワシントン州立大学出版が、ハンフォードの元住民からオーラルヒストリーを聞き取ってまとめた本を見つけて、夢中になって読んだ。なぜ、彼らは土地を追われたのか、追われねばならなかっのか。土地に根ざすとはどういうことか、なぜ「ふるさと」は個々の存在の基盤にかくまでも影響するのか、いろんなことを考えさせられる。
とてもよかったので、そのうち関係者に連絡をとってみようかなと思っている。(ハンフォードには友人がいるので、関係者にはすぐに連絡がつくと思う。)

アメリカ側の資料を見ると、パール・ハーバーが、アメリカ人にとってどれだけ大きな意味を持つのか、ということも見えてくる。当初は遠いヨーロッパで起きている戦争が、パール・ハーバーによって「アメリカの戦争」になった。
マンハッタン・プロジェクトは、当初はナチス・ドイツを念頭においた極秘プロジェクトであったけれど、日本のパール・ハーバーがなければ、アメリカはあそこまで戦争に前のめりになることはなかっただろうし、当時2,000億ドルといわれる巨額の開発費をつぎ込むことも難しかっただろう。
となると、ハンフォード・サイト以前の住民たちを追い立てた背景には、日本の存在が大きかったことになる。

何重にも張り巡らされた歴史の糸が、ある一点で交差する時がある。偶然ともいえるし、必然ともいえる。それをきっと、私は目撃しているのだろう、という気がしている。
熱狂の過ぎ去った過去の戦争だからこそ、見えてくるものがある。それをもう少し見てみたいと思う。


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