福島復興あれこれ:「福島復興長期政策研究会」での質疑応答から- どうすれば、よりマシになるのか?
先日、NHKの「日曜討論」でご一緒させていただいたご縁でお知り合いになった福島大学の川﨑興太さんの「福島長期復興政策研究会」でお話をさせてもらいました。
末続地区の地元の方が粘り強く交渉して、地域の人たちが使えるスペースとしてJRから借り受けた末続駅の駅舎の旧駅員室をお借りしての集まりになりました。
そのときの内容は、発表スライド、議事録ともに上記のサイトにアップしていただいているので、ご興味のある方はご覧ください。
これまでのほかの方の議事録などをちらほらと拝読すると、地域のプレイヤーとして長い間粘り強く地域でがんばってきた人たちは一様に、現在の復興政策のあり方にフラストレーションを感じていることが感じ取れます。
おおむね、どなたも面識のある方か、面識がなくともお名前は存じている方ばかりで、地に足のついた活動を継続されていて、こうした方達こそが地域を支えているのだ、と尊敬している方が多いです。そうした方達が口を揃えたように、「行政は意見を聞いてくれない」と出てくるところに現在の復興政策の本質が出ているように思います。
国の復興関係の方と話をすると、どれだけご自分が福島の復興に貢献しているのか、福島を応援しているのか、熱く語られる方も少なくないのですが、そのお気持ちはありがたいと思いつつも、空回りしているのではないか、と感じることは多いです。
特に、地元の有力者や政治家は、地元のプレイヤーの意見をほぼまったく聞かなくなっている現場で、国の復興関係の方たちと地元の有力者と政治家だけで、地域住民にとっては必ずしも必要とされない事業を多く行う、ということが常態化しているように感じています。
さて、ここからが本題です。
私の話をさせていただいた研究会の質疑応答のなかで、とても重要だと思うご質問をいただきました。記録として残しておいたほうがいいと思いましたので、記憶が新しいうちに書いておきます。
(人前でお話をさせていただく時の質疑応答は、自分にとっても気付きになるご質問をいただくことが多く、コロナ自粛が解禁されて、こうした機会を頂戴できるのはとてもうれしいことです。)
1: 私がしている活動は「被災者」支援なのか、「被災地」支援なのか。
これは、私の「支援活動」は地域共同体支援をしているのか、個人支援をしているのか、という問いで、おそらくは、共同体主義をとるのか、個人主義をとるのか、といった政治的な姿勢の問いでもあろうかと思います。
私は、末続地区という地域の支援活動をしてきたこともあって、共同体主義をとるのだろう、と思われていることも多いようです。しばしば指摘されることですが、地域と、そこに属する個人の利害は、必ずしも常に一致するものではありません。
わかりやすい事例でいえば、「避難」は利害の不一致項目に該当します。地域共同体としては、避難しないでとどまる人が多い方がいい。そこへ避難をしたいという個人がいた場合、地域と個人の利害は対立することになります。
その場合、どちらを優先するか、という問いですが、私は、躊躇なく「個人」と答えます。
地域支援活動を行なったのは、ひとつには、人間は社会的動物であり、コミュニティなきところでは個人の存続が難しいということ。地域に残ると決めた人がいる以上は、地域単位で放射線対策が行えるようにした方が、そこに残った個々の人にとっても暮らしやすいに違いない、と判断したからです。個人が幸せに生きるために、あるいは、幸せは無理であったとしても、よりマシに生きるために、コミュニティが機能した方がいいと思うから、地域支援活動になったのであって、その逆になることはありません。
また、質疑応答のなかでも回答したのですが、支援活動を行うにあたっては、自分の主義主張と異なる人が対象であっても、そこで選り好みをすることはありません。
たとえば、現在の帰還困難区域で予定されているまだら除染解除について、私は、絶対に反対です。ただ、この先、政府がこの政策を盲目的に突き進め、結果、現実にその状況で暮らす人が出てきたとします。その場合、そこに暮らす方が、私たちの支援を必要とすることがあったとしたら、サポートは行います。支援者を名乗る以上、そこに支援を必要とする人がいるならば、自分の意見はどうであれ、「支援をしない」という選択肢はありません。
一方、こうした姿勢は、たんなる現状追認となる危険性があることも承知しています。従って、支援を行いつつも、政府の政策がおかしいと思う以上、そのことは指摘し続けます。政府の政策を認めているから支援をするのではなく、そこに支援を必要とする人がいるから支援を行う、ということを明確にするためにも、この点は譲れないところになるだろうと思います。
主義主張や意見の違いによって、支援するしないを決めることはありませんが、ただ、私も聖人君子ではありませんので、個人攻撃をしてきたり、私の悪口をあることないこと方々でばらまいているような方まで、無私の精神で支援する、のはさすがに無理だと思います。私も人間で、自分の心は守る必要がありますので、この点は、ご理解いただけるとありがたく存じます。
2: では、帰還困難区域はどうするのが「理想的」なのか?
帰還困難区域の現在の状況でできることは、いかにマイナスの側面をより少なくするかの「ダメージコントロール」で、なにをどうやっても、プラスになることはおろか、ゼロに戻すことも無理だと認識しています。
従って、「理想的」な状態はすでに存在せず、どうすれば、より不幸せになる人が少なくてすむ、よりマシな状態になるのか、という話になります。
そうした観点から考えれば、現在の政府の進め方は、マイナスの方向性を極大化し、不幸になる人の人数を最大化する、「最悪」の選択肢をとっているといえる、と思っています。
なにが最悪か、というと、方向性を小出しにして、将来の方向性がまったく見えない状況にしている点です。こんなことをされると、被災者は、人生の先行きを見通しをつけることができなくなります。
私たちの寿命が500年くらいあるならば、10年、20年、人生の先行きが見えないのも「誤差の範囲」といえるでしょう。しかしながら、あいにくと現生人類の寿命は、生物学的にも最長で120年程度であると言われています。これは最大値で、大多数の人はそれよりもさらに短い100年未満です。そんななか、先行きの見通せない10年、20年という期間はあまりに長すぎます。
10年なら10年、20年なら20年、この地域は戻れません、と明示した上で、20年後に議論をスタートさせます、と決めておくべきでした。そうすれば、個々人は、その目算を念頭において、人生設計を行うことができます。人生設計ができないどっちつかずのまま、どうなるかわからない状態に放置されるほどつらいことはありません。
現在でも十分に長く放置されてきたこの上さらに待て、と言われるのは、被災者の方には酷なことこの上ない、とは思いますが、それでも、現在のようないつまでになにをどうするのかわからないぐずぐずした小出しの状況を続けるよりも、あと10年、20年は無理です、と明言した上で、議論を行う方がよりマシでありますし、誠実な態度ではないでしょうか。
また、放射線量の問題でいえば、人間は、周辺地域とあまりに乖離がある環境では暮らすことはできない、というのも現実だと思います。「乖離」がどのレベルか、という具体例をあげれば、現在の段階で、0.5マイクロシーベルト毎時を平均的に超えるような場所が、他の地域と比べて不利な扱いにならないで過ごせるか、というと、かなり厳しいと思います。
仮に解除されたとしても、子供や孫はやってこず、その地域の産品は受け入れられず、人々はやってこず、という状況が長期にわたって続くことになるだろうと思います。それを「不当だ」と憤る方もいらっしゃることは理解できますが、けれど、人間というのは、不公平さや格差に対する耐性は極めて弱いという性質を持つことも事実だと思います。(だから、常に同質性の高い集団を作り続ける。)
現実に不幸になる人をどれだけ少なくすることができるか。支援活動や社会活動を行うにあたって、私の関心の中心にあるのは常にここになります。
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