読書感想文 ケイト・マン『ひれふせ、女たち』

ケイト・マン『ひれふせ、女たち』(慶應義塾大学出版会、2019年)は、女性嫌悪とも女性憎悪とも言われる「ミソジニー」という概念を、家父長制社会制度における懲罰システムと捉え直したとされる著作だ。

ミソジニー=女性嫌悪と一般的には言われてきたが、女性全般を嫌うなんてことは現実的ではない。そうではなく、ミソジニーとは、家父長制度の中で割り振られた「女らしさ」から逸脱した女性を罰することではないか、との観点から、著述してある。

フェミニズム哲学のジャンルになるようで、読みやすい本ではないが、概ねほとんど、自分の実感と照らし合わせてとても共感しながら読んだ。「概ね」と書くのは、アメリカにおける中絶禁止運動の流れや、ミソジノワールと書かれる黒人女性に対するとりわけ強く働く懲罰性など、文化的な要素が大きい部分は、実感を持って納得、とはいかないからだ。

ただ、本書の説明で、アメリカの中絶禁止運動は、なぜそうなっているのか、たんに宗教上の理由という説明では不可解だった部分が、論理的にはよく理解できた。つまり、産み・育て、ケアを本分とすべき女性が、その義務を放棄して、ケアすべき対象たる胎児を下ろすなんてことは許し難い、罰せられねばならない、ということのようである。対する中絶擁護が、女性が自分の体の自己決定権を尊重されるという意味合いを帯びる理由もこのおかげでよくわかった。

ちなみに、非常に強い家父長制社会であり、ミソジニー統治の強い日本で、中絶については非常に寛容であるのは、女性の自己決定権が尊重されているからではなく、江戸時代を通してずっと行われていた人為的な人口調整が、中絶についての抵抗をなくしているからだろう。日本の場合は、ミソジニーはむしろ、避妊を拒否し性行為を行い、子供を何度も作っておきながら繰り返し堕胎させる、というあらわれ方をするように思う。

全編、興味深いのだが、後半、印象に残った箇所がいくつかある。

アメリカの教員の授業評価のデータベースで、女性教員と男性教員で評価に使われている単語の傾向を分析してみたところ、「フェイク」と評価されるのは圧倒的に女性教員が高かったという箇所がある。分野別に分けた表が載っているが、とりわけ、教育、コミュニケーション、音楽、芸術、ビジネスと言った分野では、女性教員に対して「フェイク」という言葉が出現する機会が高い。対して、低くなるのは、工学、生物、経済、数学、物理と言った分野になっている。

このことは、対人的要素が強い分野ほど、より女性が「フェイク」という目線に晒される傾向を示しているように思われる。また、芸術、音楽といった、客観的な評価指標ではなく、主観的評価が多分に含まれるとみなされる分野でも、女性教員に対して「フェイク」という単語が出現しやすくなっている。

もうひとつ、印象的だったのは、男性教員と女性教員に対して要求される資質が異なる、という箇所だ。男性教員が生徒から罰せられるのは授業が退屈だから、という理由であり、女性教員の場合は、冷たくて思いやりに欠け、各生徒とコミュニケーションを取ることができないから、という理由となる傾向があるという。マンは、この部分で、面白い授業を行うことは工夫次第でなんとでもやりようがあるが、コミュニケーションの要求はある部分を超えると「実現不可能」であり、実現不可能な要求「ケア扇動」が女性教員には課されがちであることを指摘している。

これは、自分の経験からして、非常に納得のいく箇所だった。私は教員ではないが、ボランティア団体のリーダーのようなことをしてきた。そこで、非常にしばしば困惑し、頭を悩ませてきたのが、「手のひら返し」事件がかなりの頻度で起きることだ。これは、私に対して通常以上に親近感を示し、協力的であった人が、何かのきっかけで突然態度を豹変させ、憎悪を剥き出しにしてぶつけられることだ。男性と女性の比率で言えば、男性の方が多いものの、女性相手でも起きないわけではない。そうした相手の人は、おそらく、私に何かの「期待」をしていたのであろうことは、感じていた。ただ、それがいったい何を「期待」しているのかは、大体の場合、不明瞭であった。(注記すれば、相手の性的傾向はさまざまであったが、性的な期待ではなかったことは間違いなかったと言ってよいと思う。それとは明らかに異質の「期待」であった。)

関係が良好である場合は、別にそれは構わないので、若干不可解に思いつつも、付き合っているのだが、ある日、突然、相手が急によそよそしくなり、それだけでなく、憎悪を激らせるようになるのだ。大抵の場合、別な人に対して、私がどれだけ非人間的で嘘つきで傲慢で嫌なやつで、しかも「フェイク」であるかを吹聴して回っている。このきっかけは、なんとなく思い当たる節がある時もあるし、全くない時もあるが、思い当たる節がある時も、その後に表出される憎悪の強さに比すれば、理解不可能なくらいに軽微な、トラブルとも呼べないことであることが多い。だが、相手の話を聞いた側は、そこまで言うのなら、きっと私が何かとんでもなく非礼で非常識なことをしたに違いない、と思い、私に苦言が来る、というパターンも何回かあった。

この部分での、マンの読み解きは、大変わかりやすくい。それに従えば、つまり、相手は女性指導者に対して要求されがちな、人並外れた「ケア」、特別な思いやりや配慮を私に期待し、求めていたのだ。だが、それは通常のレベルで考えれば「実現不可能」な要求であり、それが満たされなかったから、「懲罰」を与えることにしたということになる。この解釈はまったく妥当であると感じる。

こうした経験の私自身の遭遇率の高さから考えると、女性で何かのリーダー的立場にあたる人は、皆経験していることではないかと思う。10年ほどの間に、10本の指では収まりきらない数で遭遇しているし、それによって、最近は、やや対人恐怖症の傾向があると自分でも自覚している。(今は親しそうに話すこの人も、ある日を境に突然手のひらを返し、憎悪をぶつけてくるのではないか、とはよく思う。) フェミニズムに対して、決して理解があるとは言えない夫でも、私が勝手に期待をされ、なぜか一方的に相手に手のひらを返される事例がしばしばあることは把握していて、怪訝に思って時折心配しているくらいだが、本書を読まなければ、私の個人的な問題であると思っていたところだ。男性は、同様の経験をすることはないので、これが女性がしばしば受ける処遇であることまで察することができる人は、ほとんどいないのではないだろうか。

もう一点、興味深かったのは、以前読んだホックシールド『壁の向こうの住人たち』のラストに対する批判的言及があったことだ。これは、自分自身、左派リベラル知識人であるホックシールドが、同じ左派リベラルの友人に対して、彼らが(を)嫌う右派保守の人びとと交流してみることを勧める内容である。マンは、不当な権利意識を持つミソジニー的傾向を持つ人々に対して耳を傾けることは、彼らのその不当な権利意識を助長し、手を貸すことになるだけだ、と指摘する。

ここが興味深かったのは、ホックシールドの同書の同じ箇所を読んだときに、私自身、違和感を持っていたからだった。口が悪いと承知しつつ書くと、「これだから育ちのいい、恵まれた学者先生は…」と苦笑いしたのだった。もちろん、部分的には理解できる。つまり、悪魔化せずに、相手が自分とは異なる利害を持つ人間である、ということを知るのは、それはそれで重要であるし、社会の和解のためには必須だ。だが、マンの言うように、時と条件、相手に応じて、相手は「悪魔」のようになりもするのも事実なのだ。

ホックシールドは、十分な実績のある高齢の白人女性大学教授だ。それと、若い白人女性で駆け出しの研究者であるマンとでは、扱いも大きく違うであろうと思う。家父長的傾向のある人は、ひとたび、家父長的社会でのしっかりしたポジションを得た人に対しては、丁重に扱うものだし、その人が腰を低く接してくれれば、人並外れた親近感を示しさえもする。だが、それは社会的地位があればこそ、だ。そして、自分が丁寧に扱われるポジションにある人は、そうでない立場の人が、同じ人物からどれほど暴力的に扱われるかは気づかないことがほとんどだ。

本書の最後は、「一人の女にとってのミソジニーは、男たちの詩的正義なのである」で締め括られる。これは、私が本書を読みながら、小林秀雄の「女は俺の成熟する場所だった」を思い出していたのと、ピッタリ符合する。本書を読みながら、これから、おそらく、過去の文学作品のいくつか(よりはさらに多い数だろうが)は無効化されることになるのかもしれない、と思った。それについては、またいつか書くかもしれないけれど、小林秀雄が自分でそう明言するように、誰かを踏み台にして形作られた文化は、社会構造が変われば、その存在意義が問われるのは必然であろうと思うからだ。これは、女性問題に限らない。これまでの既存秩序を愛し、守ってきた人にすれば、その変化は苦痛を伴うことだろう。ただ、文化だけが社会構造から無縁な、ピュアで絶対的な領域を保ち得たことは歴史上存在しないし、これからも存在しない。大きな社会変革が起きるときには、新たに評価され直しもするものだし、もしかするとその選別は、音もなく静かに進むものかもしれない。

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