「死にたい」と思ったときには、

「死にたい」とこぼしてもええんよ。

世の中には、「死にたい」が人の姿をしてようやく歩いている人間なんて山のようにいて、どうにかこうにか一日一日生きることをつないでいたりする。
衣食住足りていても、愛されていても、それでも「死にたい」と思ってしまうのはなぜなんだろうか。そんな自分がどうにも情けなくてそれでまた死にたくなってしまう。

そんな自分に折り合いを付けられるようになるのは、年を重ねるごとに自然と「死」の成分が濃くなってゆくせいなのかもしれない。死にたいと思わなくても、「死」の方が自動的に自分に歩み寄ってくる。それは誰にとっても平等に訪れる自然の摂理だ。私が「自分は死なない」と思えるようになったのは、自分が死ぬときの姿を明確にイメージできるようになってからだ。その時にどんな世界が見えるのか、身動きできない混濁する意識の中でなにを最後に思うのか、想像に過ぎないとはいえ、おそらくこれがそうであると確信できるほどには、生々しく想起することができる。そして、そうできるようになれば、自分から死ぬ必要はなくなった。(これ以外にもいくつか理由はある。そのうち書くかもしれない。)

なんにせよ、この年になってわかるのは、世の中には人の皮をかぶった「死にたい」が溢れていて、それをおおっぴらに語らないだけなのだから、「死にたい」ことそのものを悲観する必要はどこにもなかったということだった。
だいじょうぶ。
死にたいのはあなただけじゃない。

気に入られましたら、サポートをお願いします。