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ニュース✓:物語が歴史の勝敗を決した(ユバル・ハラリ氏)

 非常時には、SNSは情報だけでなく感情のるつぼになるものですが、今回は、ロシアのあからさまな武力侵攻への怒りに加え、実況中継されるウクライナ国内の人びとの様子とウクライナ大統領の効果的な発信が、ウクライナへの強い共感につながっているようです。

世界を変える「電話兵器」

 ゼレンスキー大統領が、ものすごい量の電話を各国首脳にかけ続け、武器支援とロシアへの制裁を求めているという記事。戦火のなか、戦況の把握と指示をしながらどうやってこれだけの電話をかけられているのかという驚異的な数で、それによって、彼はウクライナの戦争に勝てないとしても、NATOとEUは変えることに成功した、とのことです。

 EUの首脳と話している最中に、「いま火に包まれているから電話を切る」ということもあったようです。アメリカから、避難するなら助けると言われ、「必要なのは弾薬だ、乗り物じゃない」と断って、闘うことを決めている張本人から電話で求められれば、心を動かされるのが人情というものだと思います。

 今回は、日本の報道はあまり見ないで、基本的に欧州の報道を追っています。
 欧州は、地理的に近い要因もあり、現地からのレポートも怒濤の報道量になっていて、質量共に勝ることが大きい理由ですが、もうひとつ、安倍前首相時代の日本のメディアのロシア関連報道を見ていて、まったく信用ならない、と思うようになったことも大きいです。
 あれだけ簡単に首相官邸に情報操作され、お追従報道を連発していた日本の報道機関が、今回に限って本当に報道の良心に従っているのか、とりわけ、官邸と一体になって世論誘導していたNHKが日本国内の政治事情に配慮しない報道ができるとは信じられない、というところです。

 「信頼」にかんすることをずっと考えていますが、このように一度、決定的に信頼を損なうことをしてしまうと、その後も長期に渡って、大きな出来事があるたびに不信が優勢になるのだと、わがごととして実感します。
 もうひとつ、国際的な報道に関しては、日本の報道機関も、SNSだけでなく海外メディアとも比較される時代になったのだとも実感します。

物語が歴史の勝敗を決した(ユバル・ハラリ氏)

 歴史家、ユバル・ハラリ氏の寄稿。ハラリ氏の著述のスタイルは、なんというか他人ごと感を良心で取り繕っているような気取ったところがあって、好きか嫌いかで言うと、好きではないタイプの書き手なのですが、指摘は興味深かったです。

 ゼレンスキー大統領の獅子奮迅の情報発信もそうですが、戦地となったウクライナからは、鼓舞するような「物語」が次々と伝えられています。
 ロシアの軍艦に投降を警告され、「くそくらえ、ロシア軍」と答えて戦死したとされる兵士たち。

 昨日までは、化粧をしてハイヒールを履いて歩いていたアーティスト(男性)がウクライナを守るために軍に志願したというエピソードを寄稿したウクライナのアーティスト女性。

 こうした物語は、ウクライナの人びとの心の奥深くに強く刻まれ、民族としてのアイデンティティを強化することになります。
 アメリカのアフガンやイラク侵攻と占領の例からも明らかなように、戦争に勝つのも占領するのも武力さえあれば比較的平易です。けれど、保持することははるかに難しい。ましてや、被占領地の人びとの反感が強ければ強いほど、困難になります。

 その意味で、ロシアのウクライナ併合は、いかに平穏にウクライナを占領できるかにかかっていたのに、プーチンは決定的に失敗してしまった。今回の戦争に仮に勝利したとしても、長期的にはロシアの敗北だ、という内容でした。

コロナ対策の勝敗は、なにによって決まるのか。

 パンデミックが始まって以来、コロナ対策の勝敗はどのように決まるのだろうか、とずっと考えていました。死者数を比較して成否を決するような論調が多かったですが、短期的な対策においては死者数は決定的に重要なファクターであったとしても、長期的に与える影響は、死者数が社会機能を損なうほど大きくならない限りは、決定的な要因ではないだろう、という気がしていました。
 なぜならば、現に私たちは、スペイン風邪の死者数をきれいさっぱり忘れ去っていたからです。
 そして、勝敗は、結局は、国民的に達成感を共有できるかどうかで決まるのだろうと思っています。ハラリ氏の指摘は、これに近いものだと感じました。
 人間は、まことに物語によって生き、物語によって死ぬ生きものなのだと思います。

物語の力強さ

 ウクライナから発せられる物語が力強いのは、それが真実の経験から来ているからです。SNS時代に世界を圧倒している、自分をどのように見せるか、というポジショントーク的な演出された物語ではなく、命をかけた、彼ら自身の譲渡しがたい人生の物語であるからこそ、人の心を深く打ち、また動かすのだと思います。

 ひるがえって、福島事故を経験してきた私たちは、そのような、なにものにも代え難い、誰かに語らされるのではない、誰かに向かって格好つけたのではない、譲渡しがたい物語を生みだすことができたのか、考え込みます。

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