自己評価の低い人は「歌う前のスーザン・ボイル」なのかもしれない

小田急線の殺人未遂事件。痛ましさと怖さを感じると同時に、「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」とのコメントを見て、きっと煮魚がこの犯人の真横にいたらスルーされて生き延びたかな、とも思ったのね。そしてこのニュースについたコメントで「その人が幸せかどうかなんて分からない。SNSに出ていることだって人の一面でしかないのに」的なことが書いてあって、本当にそれだよね、と膝叩いてしまった。


とかく、人は見た目とか表層に囚われてしまう。それを逆手に取ったいい例が、スーザン・ボイルだとは思うのだけど。ただ、あの有名になったスーザン先輩のオーディションシーンを見ると、「人の外見を基準に人を見下す」人の表情がそこかしこにあって、あれはあまり気分のいいもんじゃないよね。「ギャップ萌え」の分類にしては、ちょっと後味が悪い。「こんな田舎BBAがここまで来て何してんの?しかもただ歌うだけ?」という、「プゲラ」を顔に表すとこうですよ、みたいなリアクションだらけ。そしてカメラは、スーザン先輩が歌った途端にその表情が一変する瞬間を次々に捉える。まあ、ドラマだよね。でも、当時はその表情の変化を醜悪に感じて、動画の続きを見ることが出来なかったんだよね。東京五輪の開会式でスーザン先輩の歌が使われたというニュースを見て、久しぶりに思い出して件の動画を見てみたら、今度は最後まで視聴することができたよ。それはきっと、自分が「幸せ」になったからだし、大人になって余裕が出てきたからだと思う。いや、最初に動画を見た時も大人だったんだけどさ。年齢と内面の成熟って違うもんね。
余談だけど、今のスーザン先輩、めっちゃキュートね。スーザン先輩のオーディション時が47歳で、今58歳。煮魚もアラフィフだし、めっちゃリスペクトしちゃう!お金掛けると誰でも見た目はよく出来るのねと思ったよ。少しは見た目にお金掛けようかな?って気にもなった。けどこれはまた、別の話。

話が逸れちゃったけど。「若い」とか「イケメン・美人村の住民」(鴻上尚史氏のパクリ)、あとは社会的に成功しているげな職業の人とかは、圧倒的に「勝ち組」と思われて、勝手に幸せ認定されちゃう。小田急の犯人は、とにかく自分が「不幸」と思っていて、だから「幸せそうな女性」を憎く感じたのかな。続報聞くと、人が死ななくて残念、とか、とにかくすごいメンタルの人だなあと思うよね。色々拗らせすぎ。成育歴に興味を抱くと同時に、自分もそんな子育てしてないかなっていう恐怖もあったりして。「人の不幸は蜜の味」になるメンタルってどんな時なんだろ?煮魚は出来た人間じゃないので、多分、他人くんが不幸に転げ落ちたらうれしい。でも、その不幸が子魚たちに及ぶものであればそれは喜べない。だから、差し引きで結局そこそこ幸せに生きててね、と思うしかない。そして、全然関係ない人の不幸せは、聞いてていい気分じゃないし、辛くなる。どうしたら、不幸な人を喜べるんだろう。いや、ちょっとくらい嫌な人が犬のうんこ踏んだらやーいやーい、と思うけどさ。その人が、例えばこの小田急の事件に巻き込まれたとしたら、さすがに「・・・」ってなっちゃうもんね。でも、「人の不幸は蜜の味」な属性の人たちは確実にいる訳で。

でもさ。多分、煮魚は一般投票を行うとしたら、いやそんな機会は勿論無いんだけど、負け組な部類に入ると思うのね。バツイチ子持ち、子の中には障がい者もいて、貯金無し安月給借金あり(教育ローン)、勤務先に退職金制度はナシ、年金分割はできずにお先真っ暗的な。いやいや、正社員になれてるだけ勝ち組でしょ、とかいう意見もあるだろうけど、そもそも一人親手当が満額ではないけど出ている時点で富裕層ではないってことだもんね。そして去年までは満額だったしさ。恋愛方面は微妙。好きな人に会いたいって言ってもめっちゃスルーされてるw会えない≠好かれてない、と思ってまだまだ挫けないけどね!

でもね、煮魚は幸せなんだ。好きな仕事できて、子魚には疎まれてるけど、その分放置してくれるから自分のことに時間使えるし、裕福じゃないけどひかりTVを契約する程度の稼ぎはあるからいつもミュージックチャンネルを流して好きな歴史番組や時代劇や映画を録画して気が向いたら見て、他にも幸せポイントはちらほら。昔からの友人とはSNSで繋がっていられるし、本当にありがたい。9連休に出かける予定なんて全然なくて、引きこもり喪女まっしぐらに見えるけど、それでも幸せ。誰も煮魚を怒鳴ったり責めたりしないからね。そして、時々、本当に時たまにだけどある、Noteの「スキ」とかね。その「スキ」がある瞬間は、自分がスーザンになった気がする。あー、でもよくあるSNSのイイネ乞食的なものとは違うんだよな。数じゃなくて、心を動かしてくれた人がどこかにいるってだけで、その奇跡に感動するっていうか。

世の中に多様な評価軸がありさえすれば、誰でもどれかのものさしでは+が多い方に入るんじゃないかと思うのね。そこが難しいところだとは思うんだけど、そんな多様なものさしを持った人に出会えたら、きっとスーザン先輩現象を、誰しも起こせることができると思うんだよね。

そう考えられるようになったら、不幸な事件は減るんだろうけど。きっと、そう考えられるようになれるきっかけを得られる機会は、そんなに無いのかもしれない。切ないね。

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