離婚へGO!②それでもできなかった訳

結論から言うと。①子どもが小さく働けなかった②お金がなかった③他に住む場所がなかった、に尽きるんだよね。結婚後すぐ、いつか離婚してやろうって思ってたから、とにかくこの3点をいかに解消するかを考えながら生活してた感じ。

結婚して15年だったんだけどさ。最初から私の立場は弱かったんだよね。付き合った最初はお姫様みたいに扱ってくれて、それで調子に乗ってたんだろうね。この人は自分がいないとダメなんだろうくらいに生意気に思ってたよ。ある意味それは正解だったのかもしれないけど。ずいぶん居丈高なことも言ったし高飛車な振る舞いもした。自分の方が好かれてると思ってる女あるあるだよねw痛い。痛すぎる。十万ry
その後、結婚生活中に一貫して言われる「調子に乗りやがって」。だからその言葉は、とても苦手なんだよね。お笑いとかのセリフで出てもズキっと、胃がひりつく。「おまえはあのとき酷かった」って言われてると、そうだよねごめんなさい償いますって思って、そうやって結婚生活が始まった気がする。結婚中もよく言われたよ。この結婚は刑務所でお前は受刑者、って。はいそうですと思ってた自分、頭悪すぎww
煮魚はよくクズだ人間以下とか言われててさ、自分より下の人間といると自分が常に上にいるから楽って言われて逆に感心したよね。その考えは無かった!的な。自虐すぎるせいで歪んだ認知が、逆に精神を守ってくれてたのかもしれんね。通常の考えなら傷つくようなこと言われても、「へー、この人はこんな考え方するんだ!」ってびっくり、驚きの方が強く感じてたからね。

結婚してから立場は逆転して、結婚してやったのにと、捨ててやるをちらつかせられてすがっていた結婚前期。途中から離婚するするわめくようになったけど、子供ちっちゃいから無理だったね。煮魚の親はいわゆる毒親で頼れなかったし、親より旦那の方がマシだったから、他に行き場所がなかったしね。煮魚には3匹子魚がいてね、中の子ちゃんは障害あったんだよね。それだと絶対フルタイムとか無理なのよ。支援校のバスの送り迎えは8時半から15時半とかだしさ、下の子ちゃんも抱えたらどれだけ無理げーかっていうね。思えば、いつかきっと離婚してやるって思いながら十数年をすごしてたよ。おかげで子魚ちゃんの自立は早かったよね。障害児なりに、いかに世話しやすい子に育てるかってことに注力したんだよ。基本的なことは自分でできる、出来ない事は自発的に頼れるようになる。この2点。身体的に無理なことは仕方ないけど、他はなるだけこなせるように、ってね。上の子下の子ちゃんに中の子ちゃんの世話をさせるようなことはしないようにしてたんだ。当時、大河であった北条時宗見てたら、弟は兄ちゃんを補佐するために時輔って名前を付けられてそれが強烈なコンプレックスになってる場面見たしさ。高島ちさ子さんの名前の由来が、障害のあるお姉さんがち〇〇さんって名前で、そのお姉さんを補佐するの佐でちさ子って付けられたそうですって聞いて、すごく胸が痛くってさ。彼女はそれをあっけらかんと言えて自分もたくましく生きてるけど、そんなメンタルの子に育てられる自信無いって思ったしね。実際、今育ってる下の子ちゃんを見ると、ガラスのメンタルで、ちさ子とか時輔なんて付けられたらそれを恨んで生きていくようなタイプになってるから、自分の見立てはとりあえず間違ってなかったと思ってるね。まあ、離婚するのに遅れるという重大な間違いをしてきたわけなんだが。

で、いろいろ試行錯誤してやっとフルタイムで働けるようになってから、じゃあいつ離婚しようかって考えるようになったよね。そこから4年、かかったかなあ。でも、とりあえずうまくやっていければって気持ちも持ってて、あとは生活に追われて、まとまって貯金とかも出来てなかったし、してなかったかな。離婚したいって思いながらも、楽したくて自分の趣味の漫画とかネイルとかにお金つかってさ。現実逃避してたよね。下の子ちゃんにもよく言われるけど、過去の自分に一言いうならなんて言う?っての、「金貯めろ」の一択だよね、って。ま、そんなこんなでぐずぐずしながらも、段々と限界に近づいていくんだよね。

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