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ティファナ後編、移民調査 Tijuana, La Ciudad de Migrantes

このブログは、自分が2020年2月にアメリカ・メキシコ国境の街ティファナを訪れた時に見たこと、聞いたことを中心に書いている。ティファナの街の様子は前編をどうぞ。

ティファナは、アメリカを目指すメキシコ、そして中米諸国の移民が国境を越えるためにまず目指す都市の一つだ。中米諸国からの距離で考えると、東側のレイノサ、マタモロスといった国境都市の方がはるかに近いが、かなりの危険性を伴う地域のため、遠くてもティファナを目指す移民が多く存在する。

↓中米移民が、メキシコに入国してアメリカ国境へたどり着くまでのルート

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今回は、移民の調査に行かれる方に自分も付いて行かせて頂いたが、数日間で国際機関政府機関現地の大学、様々な移民支援施設、そして税関を訪れることができた。

ちなみに、首都メキシコシティとティファナの時差は二時間であり、首都の朝9時の就業開始時間にあわせ、ティファナの国際機関は朝7時から開始しているという。早起きすぎて頭が上がらない。

まず、国家移住庁、国際移住機関、ティファナ市役所、El Colegio de la Frontera Norte(大学院)の方々から聞いて把握した移民の動向についてである。

ティファナには、大きく分けて5種類の移民が滞留していると考える。

①Repatriados(強制送還者)

アメリカで犯罪などを犯したが故に不法に入国したことが発覚し、強制送還されてくる移民たち。

②MPPs(移民保護プロトコルによる送還者)

MPPとは、近年アメリカとメキシコ政府の間で締結された協定である。アメリカで保護申請した移民をアメリカではなくメキシコで待機させるという規定であり、毎日多くの移民がメキシコに送り返されてくる。ティファナのあるバハカリフォルニア州には、①も含め毎日約200名が移送されてくるとのことであった。去年だけで、州として66000人のメキシコ人をアメリカから受け入れている。(後述の税関を訪れた際に、送還者を目にすることができた)

③Solicitantes(難民申請待機者)

不法に国境を渡るのではなく、難民申請をして結果を待機する移民たち。しかし、審査の結果が出るまで最低6ヶ月かかる上に、通過率はたったの1%以下である。

④国境越えを計画する移民

不法に国境を超えてアメリカへ渡ることを計画する移民たち。ティファナは警備が厳しい上に頑丈な壁が存在するので、国境上の別の地点へ移動する人もいる。しかし、国境越えルートは麻薬組織が支配しており彼らに高額の案内料を支払うしかない。Coyoteと呼ばれる彼らから暴行被害に遭うことも少なくない。例え国境を無事に越えたとしても、国境警備隊に見つかったらないという保証はない。砂漠に潜む、サソリやガラガラヘビにより命を落とす例もある。

⑤ティファナに住みつく移民

もともとは国境越えを目論んでティファナに来るも、そこに定住し文化を形成する移民もいる。前編で紹介した、ハイチ料理店を経営するハイチから移民が良い例であろう。

移民の出身地

国際移住機関は、強制送還された彼らを元の出身地に戻すという事業も担っている。以下が、アメリカから移送されてきた移民の国籍別の人数である(2018年)。

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まず、メキシコからの移民の多さに驚く。ニュースで取り上げられるのは中米諸国からのキャラバンばかりであるため、今まで注目することがあまりなかったからかもしれない。しかし、歴史的に見てメキシコからアメリカへの移民は非常に多く、とりわけ1994年に発行されたNAFTA(北米自由協定)後増加した。チカーノと呼ばれるメキシコからの移民とその子孫たちは、アメリカにおいて政治的にも経済的にも非常に大きな影響力を持つ集団となっている。

次に、メキシコの州別で見る移民の出身地、上位5つである。

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格差の大きいメキシコの中で、貧困層の多い地域、そして麻薬組織が蔓延る地域からの移民が多いのが見て取れる。

移民支援施設の現場へ

ティファナには、政府機関が把握する限り15つの移民支援施設が存在する。そのうちの3つの施設を実際に訪れることができた。

まず、政府の支援で成り立つ施設を訪れた。後述する他の施設に比べ、設備は良いと感じた。子供たちの遊ぶ場所も確保されていた。

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子供たちへの教育についてであるが、政府からの支援を受ける施設であるため、現地の公立学校に無料で通うことができるとのことである。

次に、キリスト教の団体が支援する民間の施設を訪れた。

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このように簡易ベッドが敷き詰められている状況であった。子供たちへの教育は施設のスタッフによってなされているという。

ここを訪れたとき、ややショッキングな光景を目にする。施設の出口付近で、余った食べ物の施しを待つ移民の人たちが待っていた。彼らは寝泊りする場所はなく、食料もその日その日をなんとか食いつなぐという状況である。支援施設がいくつか存在するとはいえ、まだ十分に支援体制が整っていないことを痛感することとなった。

最後に訪れた郊外にある施設は、ご覧のようにメキシコ、中米諸国の国旗が掲げられていたことが印象的であったが、環境的には一番劣悪であったと言える。まず、渓谷の麓にあるこの施設は、雨季になると近くに川が形成され、外部からのアクセスが遮断されるという。

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内部の環境も、他の施設と比べ大きな違いがあった。最初の二つの施設では、簡易ベッドが設営されていたが、ここでは簡易テントが敷き詰められそこで暮らすという状況であった。私が訪れた2月の時点ではコロナウイルスの波はメキシコに到着していなかったが、衛生的に劣悪なところに多くの人が集住している状況に危機感を覚えるスタッフの方がいたことを覚えている。

民間の施設であるここでは、もちろん公立の学校に通うことはできない。スタッフも不足しており、教育が十分になされていないということであった。施設内の壁に貼られていた、紙が非常に印象的だったので紹介したい。

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子供たちが、数字や曜日などを覚えられるように、施設の方が作成したという。興味深いのは、スペイン語だけでなく英語でも書かれていることだ。最終的目的地であるアメリカの公用語を身に付けることが、将来的に彼らの身を守ることにつながることを改めて実感した。

施設を案内されながら歩いていたが、その際今でも鮮明に覚えている衝撃的な体験をすることになる。

12歳くらいの少女が、その妹とみられる5歳くらいの女の子を抱きかかえて、施設のリーダーのもとに寄って来た。彼女が言うには、妹の体調が悪く熱もあるため病院に連れて行って欲しいということである。だが、施設のリーダーの返答は思いもよらないものであった。

"¿Cuál es su nacionalidad?(その子の国籍はどこ?)"

"De Oaxaca(オアハカ出身です。)"

"Entonces la llevaré al hospital.(それなら病院に連れて行くよ。)"

最初は、なぜ国籍を尋ねたのか理解ができなかった。しかし、後々聞いたところによると、メキシコ国籍なら、医療サービスは無料で受けることができるので病院に行くことができる。しかし、ホンジュラスなどメキシコ国外の人である場合、本当に緊急の状態でしか行くことができないと言うことであった。彼女は幸いオアハカ(メキシコ南部の州)出身と言うことで、病院に向かうことができていたが、同じ移民の中でも大きい格差が存在することに衝撃を覚えた。

移民たちの姿を写真に収めることはどの施設でも禁じられていた。なぜなら、とりわけ中米諸国からの移民の多くはギャングから逃れる形で来ており、彼らの顔をネットにアップすることは彼らの命に危険を及ぼしかねない。

以上のように、移民施設間の間での格差、そして国籍別の待遇の違いなどの課題を思い知ることができた。政府の公式の施設では十分な教育がなされているが、民間施設ではスタッフが足りないと言う問題が挙げられる。また、医療へのアクセスという点で、外国籍の移民たちは非常に脆弱な立場にあると言える。そして、何より忘れてはいけないことは、その施設にすら入れずに今も路上で生活をしている移民が多くいるということである。

税関(Aduana Mexicana)

最後に訪れたのは、国境に隣接する税関である。↓米墨国境の線

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ここでは、アメリカから送還されて来たばかりの移民たちの姿を窺うことができた。移送されて来たばかりの彼らは、栄養失調などの健康的問題を抱える人も多く、税関ではこのような簡単な食事が彼らにまず手渡されていた。精神的に不安定な状態にある人も多くいるという。

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ここでは、難民申請者に対する審査も行われている。前述の通り、メキシコの各地からアメリカに渡りたい移民が集まるが、興味深いことに、審査に通りやすい州、そうでない州がある。そのため、自分の出身地を詐称して審査にのぞむ人もいる。そこでこの税関には、メキシコ各地で話されているスペイン語の細かいアクセントの違いを判断する専門家の方もいるということであった。

最後に

非常に衝撃的で忘れもしない体験の数々を、この国境の街ティファナですることができた。日本ではもちろん、メキシコシティで暮らしていても、「国境」、「移民」といった概念と触れ合う機会はほとんどなかった分、ティファナで過ごした数日間は自分の価値観を大きく変えるものであった。このブログを書きながらも、いかに自分が地球上で恵まれた環境にいるかを実感するとともに、何かしらの形で今後もこの問題と向き合い、自分のできることをしていきたいと思った。

この前、メキシコシティにいる中米移民の子供へ算数をオンラインで教えた際、授業の終わりに子供の一人が、アメリカに渡るために翌日にティファナに母親と向かうということを教えてくれた。ただでさえ非常に危険な道である上、コロナウイルスという新たな危険がある中、無事に国境までつくこと、そしてアメリカに渡れることを祈るばかりだ。

コロナウイルスが理由で、半ば強制的にアメリカから強制送還される移民も増えたと聞いている。また、移民の受け入れを中止する施設もあるという。

一人でも多くの人がこのブログを通じて移民の現状を知ってもらえるのなら非常に幸いである。自分がティファナで見たことは、世界中に存在する移民・難民のほんの氷山の一角に過ぎないが、この経験を絶対に忘れずにこれからの人生を歩んでいきたい。


読んでいただいてありがとうございました!

Selena Quintanilla

最後の最後に、自分が大好きなチカーノ歌手、Selena Quitanillaを紹介したい。チカーノとは主に、メキシコからアメリカに移住した人の子孫たちである。

セレーナは1971年にアメリカのテキサスにおいて、メキシコ人の父とメキシコ系アメリカ人の母のもとに生まれる。

1995年にファンに銃殺されるまで数多くの名曲をスペイン語で残した。メキシコ国内でいまだに彼女の人気は本当に高く、知らない人はいないと言っても過言ではない。フィエスタでも、ラジオでも、クラブでも彼女の歌を頻繁に耳にした。

メキシコ人の中で、アメリカに住む親戚を持つ人は非常に多くいるが、メキシコからアメリカへの移住の歴史を象徴する歌手としてセレーナを人々は捉えているのかもしれない。彼女の両親のように簡単にアメリカに渡ることのできた時代は過ぎ去ったが、セレーナの歌は永遠に歌い継がれるだろう。

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