追憶の天津飯(食いしんぼうの情景vol.1)

刷り込まれた記憶というのは、なかなか厄介なものだ。特に小さい頃の食べ物に関する記憶は鮮烈で、芋づる式に当時の匂いや感情といった生々しい出来事まで思い出させる。


オレンジ色の日除け(赤だっただろうか、記憶が曖昧)、自動ドアの右側には年季の入った食品サンプルが並ぶ。黄色の看板には大きく”金香楼”と掲げられている。一歩中に入ると、新聞を繰っていた手を止めたおばちゃんが「いらっしゃい」と、ゆったり動き出す。


物心ついた頃から家族で何度も通っているお店だ。だからメニューは見ずとも決まっている。黄金に輝く天津飯だ。


艶やかな餡のかかった大きなどんぶりにれんげを入れると、フワッとした卵の中から白いご飯が顔を出す。餡を纏わせるようにしてご飯と卵を口に運ぶ。一口目は特にあつあつで何度も口の中をやけどした。


結構なボリュームがあったので、小さい頃はひとつを食べきれず、大人に手伝ってもらっていたのだが、あるときからひとつ食べられるようになった。父も母も店のおっちゃんもおばちゃんも驚いていた。食べ切れることが、大人への第一歩、空っぽのどんぶりはまるで勲章だった。



上京した頃、どうしても天津飯が食べたくなり(ホームシックだったのだろう)、餃子の王将へ駆け込みオーダーした。が、一口食べて絶望した。

違う。

わたしの求めていたものはこれでは無いと狼狽えた。というのも餃子の王将は甘酢餡で、我らが金香楼は中華餡なのだ。いつも食いしん坊なわたしのスプーンが遅いので、同席していた友だちは気分が悪いのか、と尋ねてきたほどだった。


甘酢餡は無論美味しいし、大好きだ。なのに受け付けないわたしがいる。小さな頃から慣れ親しみ、何度も食べて刷り込まれてきた記憶の中の味が、当然口の中に広がると思っていたので、落胆が大きく、大袈裟かもしれないが、東京に住むってこういうことなのか?とすら感じた。


うちは学習塾を営んでおり、母も講師をやっていたため、夜が遅かった。母の仕事が終わるまで塾の待合室で宿題をし、寄り道して金香楼に行った。当時は外食自体が嬉しかったので、子ども心にいつも母からの「天津飯行こっか」を待ち望んでいた。今だからわかるけれど、母も仕事で疲れてご飯作る気力がなかっただろう。そういう時に信頼できる街中華の存在はありがたいはずだ。


ある時、「天津飯行こっか」で訪れた金香楼に、仕事帰りに立ち寄った風体の女性がいた。一人で食べるには多すぎる量のオーダーをした彼女は、細い身体でどんどんと中華料理を口に運んでいた。今では、おひとりさま、なんて言葉があるけれど、当時は女性が一人で夜に外食というのは、同情を誘う余地があったのだろうか。幼心になぜこの人は一人で食べているのだろう、友達や家族はいないのか、なんでこんなに食べるのだろうと訝しんだ。彼女のハイブランドのバッグの柄がなんだかグロテスクに見え、居心地が悪くなった。


37歳を目前に控えたわたしは、一人で中華料理をたくさん食べたくなるような日も、「天津飯行こっか」な日も経験した。そして、金香楼は長い歴史に幕を閉じた。子どもの成長に寄り添い、おひとりさまの礎の一端を築き、そして母を支えた。


もう食べられないと思えば思うほど、食べたくなってしまうこの性格よ。今晩は天津飯にしよう。わたしの作る天津飯もまた、娘の記憶に刷り込まれ、ふとした瞬間に何かを思い出すきっかけとなるのだろうか。

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