5/10 日記 私はアンドロメダ

アンドロメダです。
この文章はただ考えたことや今思っていることをそのまま書き連ねたものです。思いついたことをそのままの順で書いてあるので、構成とかは皆無です。「ツイートするのもまたなんだか違う気がする」文章が今後もこんな感じで投げられるかもしれません。

私は、自分の人生をコンテンツとして楽しんでもらいたいと思っている。だから自分の思想や哲学もずっと語り続けるし、恋愛や人間関係の悩みだって隠さずにいたい。
悩みや思想それ自体はありふれたものかもしれないけど、それをできるだけ歪ませず、ひとつながりの作品として素直にアウトプットすれば、けっこう面白くなるんじゃないかという気がしている。というか、確信かも。
だって、そもそも普通に人と接していてもそんな内面的な話ってなかなか聴けないし、聴けたとしても人間って思ったより語るときに美化や本来なかった因果関係を付け加えて話してしまうんだもの。なんとなくだけど、自分は劣化や歪みが少なくなるように話すのは人より得意な気がするし。

アンドロメダという名前は、尊敬するナユタン星人さんの曲からきている。中学のときに名乗り始めてから、たぶんあらゆるSNS・ゲームで名乗ってきた名前だと思う。たまにもう少しひねればよかったかな、とも思うけど、でももう完全に定着してしまったし気に入っている。ネットの友達が前「ハンドルネームって親から与えられたものでなくて自分でつけるから、結局その人をより表したものになりやすいよね」って言ってたけど、まさにそうだと思う。アンドロメダって名前めちゃくちゃ自分っぽいもん。
最近はTwitterで人と仲良くなることも増えて、メダさん、メダくん、ドロ氏、ドロ兄みたいないろんな呼び名もつけられてよりいっそう自分らしく思えてきた。リアルでもこの名前使えればいいのにな〜って思う。

本名は与えられるもの、って話から連想したんだけど、自分はときどき自分のことを反出生主義者だと称することがある。
「子供は親を選べない」って言葉があまりによく使われすぎて陳腐に聞こえるけど、そんなに残酷な事実はほかにないんじゃないかと思う。自分は自分よりも年下の子供(もう大人なんだけどまだ子供気分が抜けきっていないからこんな表現になってしまう)たちのことは基本的に可愛いと思うし、たぶん親になることがあったとしてもそんなに悪い親になってしまうとも思わない。でも、一つの命を誕生させるという重責を、同じ一つの命である自分が背負いきれるとはどうしても思えない。それを一瞬たりとも無視できる気もしない。
この立場は生物としては不自然だし、そもそも生殖に限らず生存のために家畜などの命を生み出しては殺しているじゃないか、と言われればそれもそうなんだけど、でもこれが合理主義や論理を突き詰めた結果の「無機的な」思想かと言われるとそうでもない気がする。むしろ生まれさせることは「残酷」だというきわめて主観的な、感情的な判断に基づいてこんなことを考えてしまっている実感がある。でもそんな考えに全く至らないという人も結構いるらしいのだから、気安く自問自答を他答にできなかったりする。

反出生主義的な話をするといつもついでに話したくなるのは、人の目の話。人の目っていうのはいわゆるメタ認知みたいな話で、「これを言うとあんなこと思う人がいるんだろうな」みたいなこと。
人の目って、気にし始めたらキリがない。反出生主義の話だと、まずそもそもこの言葉をGoogleで検索したらサジェストに「気持ち悪い」とか出てくるんだ。どうやら、反出生主義者っていうのは人によっては「不幸な人生を送ってきたから『人は生まれてこない方がいい』との境地に至ってしまった人」みたいに思われてるらしい。
正直嫌になる。これを見てからというものの、悪い想像が止まらない。勝手に会っても見てもいない嫌いな人の嫌いな言動が脳内でとめどなく生成されて、辛くなる。そんなことを考えてしまう自分のことを考えたら、また嫌になる。「反出生主義って言ってもね、個々人の人生がどうだったかとかじゃなくてもっと大きな、道徳とか倫理みたいな話をしてるんだよ」って脳内で答えても、当然脳内の嫌いな人々は私の話をちゃんと聞いてなんかいないから、嘲笑と罵声はやまない。誰もそんなこと言ってきてないのに。でもたぶんその想像は嘘ではなくて、現実で目撃か体験した嫌なことの再現をやってるんだとも思う。

実際、人は人の話なんて聞いてくれない。親だって友達だってどうでもいい他の人類だって、だいたい一回くらいは自分の話をちゃんと聞いてくれなかった。つまり自分もそれをやっているんだけど、本音を言えばそんなことどうでもいい。「だからお互い様だ」なんて書くのはむしろ思考停止だ。もはや個々の内容は覚えていないけれど、「あのときちゃんと聞いてほしかったな」は溜まり続けて一生消化できない。交換不可能なパーツの汚れみたいなもんだと思う。でも私は知っている。今このnoteに書いたようなことを「そういう小さな傷ってあるよね」って誰かに話しても、そこそこな確率でその人は分かってくれないのだ。あーあ、また会ってもないのに「嫌」が積み重なっちゃった。嫌なことを再現する想像力なんかなければよかったのになと思うんだけど、これってあなたはわかってくれるかな…

人はよく自分たちのことを欠陥品に例える。私もよくそうするし、実際バグが多すぎるだろとしょっちゅう思う。だいたい、人間の欲望の中にはそもそもどうやっても叶えられないものが多すぎる。これは人間の欲望は叶えても次が無限に出てくるという話ではなくて、そもそも達成できないものが多いという話。例えば、誰だって「自分のことをわかってほしい」と思うだろうけど、人と人が分かり合えるわけないし信じ合えるわけがない。「愛されたい」と思うけど、愛を正しく測る感覚器官などついていない(容易に嘘がつける)。生きたい死にたいも、結局思い通りにならない。そもそも欲望を欲望としてある程度客観的に認知、抑制できてしまうこと自体がかなりイカれている。しょっちゅう自分で勝手に欲望を抑え込んで勝手に不調になられても、もし創造主がいたとしたらいや知りませんがな…って感じだろうな。
みんな各々の技を使ってバグだらけの身体を乗りこなしている。私は(私に限った話ではないだろうが)「優秀で魅力的な自分」と「どうしようもない自分」を分離している。アンドロメダはその折衷がわりとうまくいっている形態だと言える。優秀側から勇気と自信を借りてきて、どうようもない部分を晒すことにしている。でも現実だとその不連続性に驚かれたり、拒絶されてしまうことがあるから、優秀側でふるまうようにしている。というより、人の前で話す時はどうしてもそっち寄りで話さざるを得ないし。話が上手い(少なくともそう言われることが多い)ので、現実だと明るくて頭のいい人間だと思われている(いた)けれど、それが苦痛なことも歳とともに増えた。小中学校で無駄に天才のラベルを貼られてしまった(最初は嬉しかったが)せいで、誰も自分そのものは見てくれないのだという気持ちも増した。変な人間であること自体はいいんだけど、勝手にあいつは天才だから、変人だからって物事を納得しないでほしかったな。
親もそうだ。もともと学力がそこまで高くない子どもならどんな進路を選択しても「まあいいでしょ」となるのに、ある程度お勉強ができたからこうなってほしい、と願望を押し付けられるのは残酷だと思う。もちろん自分の親はまったくもって特定の進路を強制してきたわけじゃなかったし、ありがたいことにそこまで多大な苦労もせず、迷惑もかけずに受験は終えられたけれど、多分これから先大学を出たあと、学歴を活かすような仕事に就かなかったらいい顔はしないだろうこともわかる。そりゃ、いろんな理由で行きたい大学に行けない人だってたくさんいるんだから贅沢な悩みだ。でもたまに、世の中の親や大人というのは子供に対して発揮する自分のエゴにあまりに無自覚だと感じる。私が「産む」ことに疑問を抱くようになったのはこのせいもあるのかもしれない。

でも今のところ毎日楽しい。大学はほどほどにやればほどほどな成績が返ってくるし、面白い授業もある。趣味の時間はそこそこある。大学にいる間に作曲でも動画投稿でもなんでもいいから多少の収益が得られるようになりたいと思っている。別に普通にこのままの流れで就職して収入を得るのが嫌なわけではないけれど。でももしかしたらそれは親への反抗でもあるかもしれない。Wikipediaの「反抗期」のページで思春期の反抗期についての記述を読むと、「急激な身体の成長に心の成長が追いつかず」とあった。私は、心が身体に追いつくことなんて一生ないと思うのだけれど、そうだとしたら一生反抗し続けることになるのかな。自分なりに精一杯生きているしこれからもそのつもりだから、もし数年無職状態になって親に養われたってなにも恥ずかしくない。勝手に産み落としたのだからそれくらいの倫理的義務は果たされなければいけないと思うし。将来的には絶対に親二人分の年収(合わせてもさほど多くないが)を一人で超えてやろうとは思ってるけど、そうするなら"アンドロメダ"として稼ぎたいな。やっぱりその方が自分として生きてる感がある。

アンドロメダとして5年くらい生きてきて、ネット上でいろんな人と関わってきたけれど、今が一番人間関係が充実しているように思う。もちろん最初の最初、Dominoで作った曲をあげていた頃から幸運なことに定期的に聴きにきてくれる人は何人かいた。その人たちが今も自分のことを覚えているかはわからないけど、自分の作ったものが会ったことも話したこともない誰かに届いて、良いと思ってもらえるなんて奇跡みたいな話だ。今もまだそんなにファンは多くないから見える形で感想をくれる人たちのことは基本みんな認知できている。作り手と受け手という関係だけでなく、作り手同士とか、そもそも作り手としてじゃなくただ話すのが楽しいだけの人たちもいる。みんな何故だかアンドロメダのことが好きらしい。これはただ表面上の話ではなく、本当に実感として現実よりよっぽど好かれている気がする。フォロワーが400人いるから友達400人だ!って言いたいわけじゃなくて、ちゃんと「この人と関わりたい」と思って仲良くしてくれている人の数が、現実の友達と同じ数かそれ以上にいそうだと感じる。素晴らしすぎる。もちろん自分でも自分のことそれくらいの魅力的な人物だと思っているから当たり前といえば当たり前なんだけど。やっぱり邪魔なのは肉体なのかな。こういうことを書いてるとネットにのめり込む若者の図としてテレビに取り上げられそうだな。でも本当にそう思ってるから仕方ない。この文章を面白く読める人がいるとしたら、それは多分そういう、アンドロメダという人間が好きな人たちなんだろうな。俺はここにいるよ。

そういえば一人称について書いていなかったな。中学くらいから家で「私」って一人称を使い始めて、それ以降俺と私が混在するようになった。「僕」もそこそこ使う。別にどれでもいいと言えばいいんだけど、「俺」の威勢の良さご凄く好きだからTwitterは大体俺になっちゃうし、逆に「私」は素に近いからこういうしっとりした文脈で出てくる。別に「俺」って言っても演技してるわけじゃないんだけど、なんかさっき言った「自信に溢れた側」「どうしようもない側」の使い分けが無意識に一人称として現れているように思う。二重人格とかではないんだけどね。このあたりのテーマはジェンダー的な話と絡めてまた別の日の日記にしようと思う。いやまあ別に私を使ってる時は女性のつもりとかそういうわけでもないんだけど、関係がないわけでもなさそうだし。

5000文字に達しそうなので今日はこのあたりにしておく。
締まらないので短歌を詠むことにする。今後も日記を投稿することがあったら記事の最後につけようと思う。

「ひとりごと聞いてほしいと思ったらそれは1.5人言かも」

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