アンドロメダが音楽を作るまで
みなさんこんにちは。アンドロメダです。
アンドロメダがなぜ音楽を作るに至ったのか、自分で振り返ってみる文章です。最初は日記のつもりだったんですが、掘り下げていくと面白いしどっちかというとエッセイじみてきたので、ちゃんと読まれることを前提とした文章に直しました。いや、まあちゃんと読めるかっていうと微妙だけど…
まず、人間の音楽経験には受動的なものと能動的なものがある(ここでの「受動/能動」は音楽を聴くか奏でるかということでなく、自分から音楽に触れるかどうかの意味である)。そして大抵の場合幼少期には受動的なものしかなく、ある程度大きくなってきてから能動的な音楽経験が始まるものだ。
最初の「受動的な音楽経験」というのはつまり家族がどんな音楽を聞かせるかということだから、両親の音楽経験は子の音楽経験の始まり方を決めることになる。私の場合、それは車に乗ったときにカーオーディオから流される音楽がほぼ全てだった。両親は、まあ同じ世代の聞いていたその時代の邦楽を一通り聞いているだろうという感じだった(要するに特定ジャンルへの傾倒はあまりなかった)。
次なる「受動的な音楽経験」として重要なのは楽器を触るか否かである。もちろんここは声楽(合唱)でもよい。多くの場合、習い事としての楽器経験はそのまま能動的な音楽経験につながる最大の動機となるだろう。私の場合両親はなんの楽器も弾けない人間だったが、幸運なことに私自身は数年間断続的にピアノとギターを触った経験がある(とは言っても多少なりとも「弾ける」といえるレベルに達したことは一度もないし、現在も全く弾けない)。
詳しくいうと、私が楽器に触れられたのは、小学校入学前に入ることとなった個人塾みたいな場所で行われていた英才教育(と言えば聞こえがいい)のおかげである。
そこは本当にめちゃくちゃで、いくら説明しても説明しきれないくらい変な空間だったのだが、とにかくその一環として6歳から11歳くらいにかけて断続的にピアノとギターを練習させられた。あとついでに音楽理論の初歩の初歩(音名・階名の概念、拍子の概念、五線譜やタブ譜の読み方など)も覚えさせられた。6歳の子供にCメジャースケールにおけるダイアトニックコードをわけもわからないまま覚えさせてたあの先生、正気じゃないよ。まあ他にも百人一首を覚えさせられたり(うち90首は忘れた)、元素名を全部暗記させられたり(5歳くらいの子もやっていた)、人生の先を見据え過ぎた数々の教育を受けたのだが、これが私の多くを形作ることとなった。後述するが、中学生になって作曲を始めてから怒涛の伏線回収が行われて驚愕した。さすがにあの先生も私が作曲を始めることまで予見していたわけではないが、それにしても先を見据え過ぎていて今考えると怖い。
受動と能動の間にある経験として特筆すべきものが、遊んでいたゲームの音楽である。幼い頃の私に最も大きな影響を与えたゲーム音楽というのはやはり『ドラゴンクエスト』シリーズの音楽であろう。DQシリーズは小1から遊んでいるのだが、その中でもロトシリーズ(DQ1〜3)には特に思い入れがある。これらの音楽に影響を受けていることは、作曲をはじめて間もない頃のアンドロメダの曲(後述)を聞けば一目瞭然である。今でも『おおぞらをとぶ』なんか聞いたら泣いてしまう。他にも、かなりの時間遊んだ『スーパーマリオギャラクシー2』に代表される3Dマリオシリーズの音楽にも影響を受けていそうだ。両シリーズとも、最初の数小節だけで情景が浮かんでくるような素晴らしい音楽に満ちている。
このあたりから、そろそろ能動的な音楽経験が登場し始める。とは言ってもそれは受動的な音楽の始まりに大きく遅れて、小学校の3〜4年生であった。インターネットとの出会い、動画サイトとの出会い、つまりはボカロ曲との出会いである。ボカロは、私にとって初めて自分から聞いた音楽だったのだ。最初はなんとなく友人らの話題に出てくる曲を聞く程度であったが、動画サイトそのものに親しんでいくにつれ自分から聞くことの方が多くなった。
小5あたりで出会った『地獄型人間動物園』の曲群は衝撃だった。『M'AIDER遭難ガール』『脳内革命ガール』あたりは今でも定期的に聞く。この曲群はテーマや歌詞の過激性もさることながら、それまで何となくとしか理解していなかった「アーティストの個性」というものをはっきりと直感的に理解させてくれた。これ以降、好きな曲の歌詞をノートにメモするようになるとともに、作者名というのを意識するようになった。
あと、このあたりのどこかで親に一度だけ「人前であまりそういうのを聞いてると〜〜と思われるよ」みたいな感じで聞いている音楽を否定されたのを覚えている。それ以降家で歌を歌わなくなったし、音楽の話はほとんどしていない。
さらに、現時点で私の人生を最も変えた(というかアンドロメダという存在を与えた)出会いが訪れたのは小6のときだった。いつものように「週間VOCALOIDとUTAUランキング(当時はそういう名前だった)」をチェックしていたとき、上位に複数の曲をランクインさせている見知らぬ妙な絵柄の変な作者がいることに気づいた。ナユタン星人である。最初はナユタン星人という名前を覚えただけで、特に曲をフルで聞きに行くことまではしていなかったのだが、あるときふと「そういえば今週のランキング上位で気になってた曲があったような」と、頭に残っていたはずのメロディーを思い出そうとした。しかし、そのお目当ての曲を思い出そうとしても思い出せない。ナユタンの曲がキャッチーすぎて、記憶がことごとく侵食されていたのだ。流石にこれは一旦脳内のナユタンを落ち着けなければいけないということで、『エイリアンエイリアン』を聞きに行った。数日のうちに全曲聴いた。中1になったらすぐに『ナユタン星からの物体X』と『Y』を購入した。それが初めて買ったCDだった。
そんなこんなで、12歳ごろようやくアンドロメダの中に「好きな音楽」が確立されることになった。ここから先は聴く曲数が一気に増え、時系列に沿って述べることが不可能になってくるので割愛する。
ここまでは前座である。まだ作曲のサの字も登場していない。
中学では(冗談抜きに母校では最もヒエラルキーの低い部活である)パソコン部に所属していたのだが、とりあえずPCを触っていれば万事OKの部活だったので、私は友達とありとあらゆる種類のソフトに触れて遊んでいた。
2年生の夏、そこで簡単な作曲ソフトに出会った(記憶が間違っていなければ、情報教材ソフトの「ジャストジャンプ」内にあったシーケンスソフトであったと思う)のが、はじめて作曲という行為に触れたタイミングだったと思う。数日触ってみてピアノロールの仕組みを理解したころには楽器や編集機能の少なさが気になりはじめたので、ネットで調べて出てきたDominoを使い始めた。
そこからDominoには2年ほどお世話になることになるのだが、その間は主にRPGゲームのBGMをイメージした曲を作っていた。この時点でボカロにはどっぷりハマっているので歌のある曲を作ろうとしてもおかしくはないのだが、DominoはあくまでDAWではなくMIDIシーケンサーの類のソフトなので、単体で再生するならばデフォルトでPCに入っている(WindowsならばMicrosoft GS Wavetable SW Synthなどの)MIDI音源を使うしかない。如何せん音がショボいのだ。同時発音数にも制限がある。しかしまあこういう性質はスーファミくらいまでの昔のゲームっぽい打ち込みをする分には問題ない(し、追加で音源やソフトを導入するなどして環境を構築すれば昔のゲーム機を再現した音も鳴らせる)ので、ゲーム音楽を作るようになったのはある意味必然であった。
驚くべきことに、パソコン部の風習として作品はどんな些細なものでも保存しておくことにしていたので、私がDomino時代に作った曲は1曲目から没も含めほぼすべて残っている。しかもYoutubeに投稿しているので聞くことができる。再生リストを貼るだけですましてもいいのだが、せっかくなのでいくつか振り返ってみることにする。
順に、2018年7月(1曲目)、2019年1月(18曲目)、2019年9月(51曲目)、2020年1月(56曲目)、2020年6月(62曲目)の作品である。2019年度後半に曲数ががくんと減っているのは高校受験によるものだ。
最初の曲はもう完全にドラクエⅠのフィールド曲やんけ!という感じだったのが、次はUNDERTALEのアズゴア戦bgmに影響受けてんのかなぁくらいになり、以降はオリジナル曲の顔ができるくらいにはなっている(はず)。こんなにわかりやすく成長が目に見えるコンテンツはないと思うし、作曲初心者はぜひアンドロメダのチャンネルを覗いて「こんなにしょぼいところからスタートしてもいいんだ」と安心してほしい。「作曲初心者が○時間で作った曲」みたいなタイトルを付けている投稿者諸君は私の前でも同じことを声高に叫べるか胸に手を当ててもう一度考えてみてほしい。あとボカコレルーk…おっとあぶない。
このDomino時代には、作曲を始めて数か月たったころにYoutube、少し遅れてTwitterを開設し、「アンドロメダ」という名義を名乗るようになる。正確には最初期は「アンド」だったが、これも"フルネーム"を意識しての名前である(余談だが、アンドロメダのローマ字表記はand_ro_meda_であり、音節に基づいたan/droという区切りになっていないのはこれが原因)。自分のgoogleアカウントを開設したのも中学生のころなので、これ以外のハンドルネームを名乗ったことはほとんどない。もちろんアンドロメダの由来はナユタン星人『アンドロメダアンドロメダ』である。幸運なことに、このころから決まって曲を聞きに来てくれる人もごく少数ながらいて、自分の作品に他者から反応をもらうことの楽しさ・嬉しさを知ることができた。
中学の終わりごろ、LMMSというフリーDAWソフトに出会った。このソフトはFL studioをお手本としたソフトなのでクラブミュージック系統の音を得意としているのだが、それを差し引いてもUIの分かりやすさとカッコよさが個人的にかなり好みだった。しかし受験期で作曲熱が強制的に削がれてしまったので、ここから高1の前半にかけての期間はときどき触る程度だった。
高校に入学しPCを手に入れ、まもなくしてCubase 10.5 Artistを購入した。しかし操作方法も個々の機能の意味も全く分からず挫折。もちろん高校生なので解説サイトやTips動画を調べることは十分可能だったが、DAWに慣れることの難しさの本質はそこではない。Dominoでやっていたのは、工作に例えるなら「すでにブロック状になった木を好きに組み合わせて棚や箱を作ること」なわけで、そんな人間をいきなり工具も材料もよりどりみどりな部屋にぶち込んで「それぞれの道具の使い方は聞いてくれたら教えるよ!」と言われても、途方に暮れるしかないだろう。
しかも、Cubaseの悪名高きUSBライセンスシステム(ライセンス付きUSBドングルを挿す必要がある)の弊害で、購入後すぐにUSBキーが故障し起動できなくなるという最悪の状態に。というわけで先ほどのLMMSが高2あたりまで活躍することに。
ここから作曲の楽しさを再び思い出すのは、高校の軽音楽部でバンドをやっている友達にこれまでに作ってきた曲の話をした時だった。久々にちゃんと自分の曲を褒められただけでなく「歌モノを作ってよ、歌ってみたい」と言われたので、ほなやってみるか…という流れで初めてLMMSで(つまりDomino以外のソフトで)ちゃんとした曲を作ってみた。確か、久々の作曲だったにもかかわらず一晩でワンコーラスできてしまって、しかも好評だったので嬉しくて数日の間に完成させた気がする。それがこの曲なのだが、今聴くと本当にすべてが拙すぎて聞くに堪えないレベルなので覚悟のある人だけ聞いてほしい。ともあれ、当時の友人たちのおかげて作曲自体の楽しさを思い出すだけでなく、歌を作る楽しさも知ることができたというわけだ。彼らには今でもとても感謝している。
そしてしばらく友人たちとともに歌モノを作っていると、当然のことながらとある欲求が湧いてくる。「いまならボカロPになれる、なりたい」と。そして高1の終わりごろ、ついに初音ミクV4Xを購入した。そして2021年4月にはついにボカロ処女作『Love In The Dark』を投稿。アンドロメダのボカロPとしての経歴がスタートした。いわば第二章のはじまりである。
これも今聴けば拙い作品ではあるが、処女作としてはかなり完成されている(少なくとも没個性的ではない)と思う。
この曲のイラストレーターさんはこちらからの依頼ではなく、「Piaproに仮音源を投稿しそれを載せたツイートにイラスト募集のタグを記載する」という(処女作でやることではない)方法で募集した。そしたらなんか6~7人もの絵師さんから連絡が来たし、その中の複数名が「この曲とても好きなのでお金なんかもらわなくてもぜひ描かせてもらいたいです!」と言ってくれたという…なんと素晴らしいことか、というか運に恵まれている。
そんなこんなで、アンドロメダのボカロPとしてのキャリアが華々しくスタート…したわけではなく、この次に曲を投稿するのは2022年5月、つまり1年もの間が空くことになる。
その理由は複数あって、まず高2までは主に先述した人間の歌を作る活動のほうに作曲のリソースを割いていたため、さらにCubaseが使いこなせないという問題は全然解決していなかったため、LMMSで作れるダンスミュージック系統以外の曲はなかなか作れずほぼスランプに陥っていたこと、そしてMIXやゲーム実況動画の制作など他にやりたいことが多かったこと。結果としてLITDの余韻に1年間も浸り続けることとなった。
そして次に投稿したのが『サロニカ』である。
この曲は2022年の5月にワンコーラス版、10月にフル版を公開している。
当時アンドロメダは高3、つまりゴリゴリに受験期である。テッサロニキの歴史を脳に詰め込むより先に、酸化還元反応の半反応式を覚えろよ。
ここから先の話はほぼ『ドッペル・ミュータント』解説記事やセルフライナーノーツで書いているので、この記事では触れないことにする。というか、要約してしまえば「ひきこもり大学生ボカロPやってます」というだけなので。
そんなこんなで、アンドロメダと音楽との関わりの話だった。
そこまで恵まれた環境にいたわけでもないのに我ながらよくぞここまで来た、という感じである。これまでに見てきた作曲をやる人は99%がピアノかギターか吹奏楽の経験者だったし、聞けば実家には大量のCDがあったりとか、親や兄弟姉妹も楽器奏者だったりとかで音楽に囲まれて育った人が多いように思う。しかし、私がそんなこと全く気にせず作曲を趣味に持ち続けられたのはひとえにナユタン星人という偉大な先駆者(楽器は一つも弾けないがDominoから作曲を始めたという同じ経歴を持っている)がいたからだ。音楽に関していえばナユタン星人は私にとってまさに偉大な父である。
ここで締めてもいいのだが、せっかくなのでこれからの展望も少しだけ書いておく。とはいっても、年一でアルバムを作って、もっといい曲をたくさん書いて、歌もうまく歌えるようになって、ちょっとは有名になりたいというだけの話だ。有名であること自体はただの状態でしかないんだけど、その副産物がデカすぎる。
まず自分の作ったものの反応が増える(そんなの嬉しいに決まっている)。アンドロメダは自分みたいな気持ちの悪いオタクの書いた長文を読むのが夢①である。次に自分の作品の二次創作が出現する(そんなの嬉しいに決まっている)。アンドロメダは「自分の曲のFA」とか「自分の曲にインスピレーションを受けて作られた曲/小説/TRPGシナリオ」みたいなものを見るのが夢②なので、それまでは死ねない。さらに、フォロワーが増えるとフォロワーの多い人間と話す資格を得る。気持ち悪い書き方をしたが、実際そこらの一般人が有名な人間と話すためにはファンクラブに入るか、即売会で商品を買うか、あるいはなんらかの作品を依頼するか、いずれにしてもお金を積む必要がある。それ自体は当然のことだが、自分の場合如何せん愛を伝えたい相手が多すぎるし、「あなたの作品があったから私がいる」という言葉に説得力を持たせるためには実際自分の活動している姿を認知してもらう必要がある。もちろん、誰かに愛を伝えられる機会も当然増えるわけだ。そして、当然人気楽曲からは大きな収益が発生する。知名度は二次創作・二次利用の可能性を高め、さらなる再生と収益を呼び込む。別にこれで食っていけるかどうかとかそういうことはどうでもいい。お金は多いに越したことがないという話である。ご飯をグレードダウンさせることなく創作に投資できるならそんなにいい話はない。
どうしようか。思ったより野望だった。思ったより音楽に人生を食われている。思ったよりダサいぞ。
でも、自分の音楽は100人が聴くところで止まるべきものだとは全く思わない。ポテンシャルに対して少なすぎる。いやもちろんポテンシャルは誰にでもあるんだけど、それにしてもあまりに届いてなさすぎる。これ読んでる君もそう思わない?『残滓』がありきたりとして看過される世界だとしたら俺は日本人全員信じられなくなっちゃうよ。
Twitterとかがんばるか。やだな~
虚構の僕をいつか超えてやる。
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