死について

死ぬって何を根拠にと思うのです、よく。

医学的に言うと、心臓が止まったら、息をしなくなったら、とか物理的に計られるけど、それもきちんと定まってない。じゃあ、心肺停止は死なの?と言われたら、意見がたくさん出るでしょう。

難しいことはわかんないから。気配がしなくなったら、だと私は定義付けてます。

毎日、会える人がいるとしますね。その人に触れたら間違いなく生きてると思います。

毎日連絡をしてくれる人がいます。多分生きています。連絡の仕方もいろいろありますよね。電話は信じてもいいかも。メールはちょっと怪しい。手紙は生きてると信じたい。気配があるかないか、なんだと思うんです。

別に私に対してじゃなくてもいいんです。SNSで毎日更新をしてる人、多分生きてると思う。更新しなくても、オンライン状態が続く人、きっと生きているでしょう。

生きてると思うけど、きっと、とか、たぶん、とか思うのは、匂いとか、体温とか、そういうものが感じられないからなんでしょうね。それって医学的な根拠のなかで、原始的というか、本能的な部分なんだと思うのです。

生きてると思うけど、疑いだしたら本当かどうか分からない。だってメールも勝手に打つことができるし、電話だって突き詰めたら音声のデータでしかないわけで。それがなんだかその人っぽいなあ、ということで信じてるけど疑ってみたら、案外怪しかったりして。そもそも、その人っぽいって何を手がかりにしてるのかしら。疑う材料がないから疑わないってだけなんじゃないかしら。

そんな風にひねくれたことを考えてると、海外に旅行に行って連絡が取れないことと、死んでしまうのと、何が違うのかしらとつくづく思うんです。だって、どっちも触れない。

私の周りで海外旅行に行っちゃった人、何人かいます。でも、きっとみんな楽しくって、連絡よこさないんだと思うんだ。逆に、旅行に出てってもらった人も数人いますよ。本人にはもちろん内緒だけど。


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