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無敵の人

「無敵の人」という言葉が今の日本社会にあることを今知りました。地方紙に載っていた記事から各種ニュースを読んでみるとどうやらきっかけとなった事件は私が絶賛浮き世離れ暮らしをしていた期間だったようで。
「無敵の人」なんて言うけれどこういった事件は今までも散々あったので、悲しいかな事件そのものに真新しさを感じなかったり。逆に各メディアや著名人が今になりこのことを憂いていることを不思議に思っています。
社会への逆襲だとか承認欲求だとか言われることがあるようなので、それとは違う意見を少し紹介したいと思います。

■ 漸進するのが当たり前 は大間違い

諦めないことや自分に負けないこと、継続させることはいつの時代でも賞賛されます。歌詞や2次元キャラなどもこのような意味の言葉を使い、それを座右の銘としている方も多いと思います、確かに賞賛されることに間違いはないのですが、一番大切で致命的な点を見落としています。

全力どころか自分の300%の力を出しても、1000%の力を出しても諦めなければいけないことも絶対に勝てないことも現実には当たり前のようにあるということです。恋愛、昇進、就職…世の中には思ったより座れるイスの数が決まっているゲームが多いですよね。おまけに不運にも車に轢かれたり落下物に当たって後遺症となったり借金を知らされず相続したなんていうことも人生には起こります。
頑張っていても全てを失ってしまうこともままあるのが世の中だと思っている人はどれだけいるのでしょうか。努力に努力を重ねてやっと「普通」に暮らせるのであって、まわりの人や社会に流されて生きているだけでは「普通」にはならない。

そんな人が全てを失ってしまったら、自分で考える習慣がなかったがためにどうしたらいいのか冷静に考えることもできず絶望に飲まれてしまうのは想像にかたくありません。反応をしてもらえないと不満や悲しみを感じ「いいね」が集中する店・人・ものに群がるように集まるような社会では、無敵の人は生まれるべくして生まれているようなものです。

■撤退する勇気、ゼロに戻れる強さ

最近巷では仏教の教えが見直されているようですね。私は今まで無関心もいいところでしたが、四国遍路を通して、なるほど人として当たり前だけどできていないことや自省すべきことも多くよい教えだなあとしみじみと感じました。

増やす・積み重ねることよりも、戻る・捨てることの方が遥かに難しいことです。他者や外的要因で失ったのならまだしも、自分自身でゼロに戻る選択をするのは自分を知り自分自身に責任を持てる人にしかできません。ゼロになったらどうなるか、自分はどう感じるか、そこからどう立て直すか。それを考えられるということなのですから。
決まって「無敵の人」の供述には、それが計画的犯行だとしても、色々と考えた痕跡よりも絶望・恨み悲しみ自棄といった感情をとても強く感じるのです。
戻るのが嫌だから、多分間違ってるけど間違いを認めたくないから、根拠のないなんとかなるさを念仏にしてよくわからない登山道?を突き進み遭難や滑落、凍傷などになるのです。わかりましたか私さん?(苦笑)

思いきって人生変えちゃって今現金800円くらいしかないんだハッハッハ、と笑っていた仲間がいるのですが本当に尊敬しています。無計画なようでいて、きっとなりたい自分をちゃんと描いているからどんな些細な事でもあんなに真面目に取り組めるんだろうなあと思っています。
人生の良し悪しが決まるとすれば死ぬ間際でしょう。それまではゼロになったって、それから頑張ってもゼロのまんまでいたって、引きこもり何十年と後ろ指さされたって全然大したことじゃない。仕事も友人も家族もなく金もなければ、一つ一つ大それた事じゃなくていいので一日僅かずつでいいからなりたい暮らしに近づく行動をすること。それを考えようとすること。それだけで今の自分を可哀想だと思う感情は和らいでいきます。
考えがまとまらないくらい打ちひしがれている時は、世間体気にして平気なふりなんてせずに思いっきり打ちひしがれたらいいと思います。「それでも私生きてるからなぁ、生きるのやめたいけど…まあ人生なんて全部ただの暇つぶしだし、せっかくだからもう少し生きてみるか」でいいんですよ。

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