動物園動物の「献体」について:追記

6/12、『動物園動物の「献体」について』という記事をアップしました。
たくさんのコメントをいただいたのですが、個別に返信する時間がないため、お返事のかわりに新たな記事を書くことにしました。(前回の記事は下記より)

まず、5000字近い長文だったにも関わらず、多くの方に(おそらく)最後まできちんと読んでいただき、大変ありがたく思います。また、それぞれに色んな想い・感情がある中、暖かいお言葉をかけていただきありがとうございました。
記事の公開前、「もしかしたらきつい言葉を投げかけられるかも…」と思っていたのですが、私が危惧していたような反応は一つもありませんでした。
私自身も、この2ヶ月もやもやした気持ちを抱えていたので、こうして想いを綴り、みなさんと共有することができてよかったです。

2019年にこれまでの研究生活をまとめた書籍を出版した際、指導教官の遠藤先生から絵葉書をもらいました。そこには、献本のお礼とともに、こんな言葉が綴られていました。

本を書くのは好きですか? どんどん書いて、自分の心を知ってもらうのがいいと思います

手紙を受け取った当時は、「先生、詩人だなあ」とケラケラ笑っていたのですが、ひまわりの記事を書く中で、先生のこの言葉を思い出しました。
多くの方々に愛された動物たちの「死」に関わる人間として、自分の心を知ってもらうことはとても大事なんだなと痛感しました。記事を公開して、本当によかったです。

今回、非常にセンシティブな話題について想いを綴ることにしたのは、いくつかの理由があります。
その1つが、昨年末に死亡した多摩動物公園のキリン「アオイ」です。私が歴代で一番好きだった個体です。アオイの最期は、安楽死でした。
大型動物の場合、立てなくなるとそのまま亡くなってしまうケースがとても多いです。自分の身体の重さで、肺が圧迫されてうまく呼吸ができなくなったり、胃や腸が圧迫されて消化不良になったりします。立てなくなって数日もしたら、床ずれも出てしまいます。
様々な手を尽くした上で、自力で立てず、立たせることもできなかったため、これ以上アオイを苦しめないために安楽死という選択が取られました。
安楽死は、なかなか日本人の倫理観にはなじまないものです。過去にも、動物園で安楽死を行なった際、少なくない数の批判の声があがっていました。

アオイの件も、そうなってしまうのではないか。
アオイの献体を引き受けたあと、それがとにかく心配でした。お世話になっている飼育員さんたちの辛く苦しい決断が批判されるところは見たくありませんでした。
でも、結果としては完全に杞憂でした。動物園の報告は非常に丁寧で、「手を尽くしたこと」「それでもどうしようもなかったこと」「アオイのことを考えての選択であること」が、わかりやすくまとまっていました。そして、私が見た範囲では、批判の声はありませんでした。
悲しい出来事が起きたとき、情報を制限したり、口を閉ざしたりしてしまうことが多いです。けれどもそう言う時にこそ、心を尽くして丁寧に説明するべきなのかもしれない。そうすることで、理解してくださる方は増えるのかもしれない。
アオイの死は、私にそんな風に思わせてくれました。

https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=tama&link_num=27197

さて、前回の記事を読んでくださった何名かの方々から、「郡司さんのように動物を敬える人が最期に関わってくれてよかった」というありがたいお言葉をいただきました。でも、私の知っている博物館関係者は、みなさん、私以上に動物たちに敬意をもっている方々ばかりです。そういった先人の背中を見て育ったからこそ、今の私があります。
動物園から献体を引き受ける仕事は、ほとんどの方には見えない「裏方の仕事」です。そして、献体に関わる人々の気持ちや信念が表に出てくることはあまりありません。もしかしたら、標本という言葉のイメージから、「献体された遺体が『物』のように扱われているのかも…」と思う方もいるのかもしれません。
でも、私の知る限り、そんなことはないです。

早く亡くなってしまったら悲しむし、大往生なら「お疲れ様」と声をかけ、長い歴史を感じさせる立派な身体に関心します。生前のパートナーの隣に収めたり、かつての同居人との再会をひっそりと喜んだりもします。毎回ではありませんが、その子の名前にちなんだ標本番号をつけるケースもあります。(一例は、下記のリンクからご覧ください)

博物館は、命のない無機質な空間という印象をもつ方もいるのかもしれません。でも、決してそんなことはありません。多くの方が想像するよりもずっと、動物に対する愛情や敬意にあふれた場です。
前回の記事を通じて、そのことが伝わっていれば嬉しく思います。

そして、今回の一連の流れを通じて、私も勉強になったことが1つあります。
先日の岩手サファリの発表を受け、「尻尾の毛だけでも、生まれ育った王子動物園に帰ってこられてよかった」とおっしゃっている方をたくさん目にしました。私はこれまで「献体された動物のからだの一部を、『供養のため』に園に残す」という考えは全くありませんでした。「一部だけが帰ってきたらむしろ悲しいのでは…」「扱いに困るのでは…」という風に思っていたようにも思います。ですが、今回、みなさんの反応を見て考えを改めました。
言われてみれば、知らないところで亡くなり、そのまま会うこともできないままでいるよりも、「一部だけでも戻ってきて、手を合わせることができた」というのは気持ちの整理をする上でとても大事なことです。

ひまわりと同じようなことは二度と起きてはならないことですが、もしもまた何か悲しい事故が起きた時、「遺体は骨格標本にするとしても、供養のために毛の一部を残しましょう」などと提案できる人でありたいなと思いました。
さまざまな学びの機会をいただき、ありがとうございました。

キリンに関しては、ここのところ若くしての死亡など悲しい死が続いています。次の献体は、「大往生だねぇ、おつかれさま」とあたたかく迎え入れ、生前の思い出話に花を咲かせながら、穏やかに「第二の生涯」に送り出せるといいなと思っています。
全てのキリンたちが、健康で穏やかな日々を送れますように。

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