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高田渡考

 音楽のマイナーシーンにおいては町々にカーストが形成されていて、そのトップにいる連中はおよそルックスと音感が貧しい。どちらもメジャー市場の商品足りえない特性である。それらを兼ね備えた彼らは他の演者を褒めない。むしろ徹底的に周囲を腐す。褒めるのは自身と同様にルックスと音感に貧しい者にかぎられる。安心するのだろう。貧しい者たちは抜けがけをしない。できない。こちらにコンプレックスを与えない。与えられない。むしろ適度に見下していられる。与えてくれるのは優越感のみ。

 貧しき者がヒーロー、ヒロインになる世界。それがマイナー。メジャーへあと一歩というような実力者たちは、もれなく貧しき者たちの誹謗中傷に遭い、つぶされてゆく。

 高田渡はマイナーの象徴だった。貧しき者たちの英雄だった。ヒット性に乏しいソングライティング力、華のない立ち振る舞い。需要の少ないフォーク流のフィンガー奏法。妬まれる存在になりえず、手の届きそうな位置にとどまってくれている。

 ひと町に一人はいる変な大人。親戚にはなりたくないが遠目に見るには愉快な存在。見ているとやはり安心する。馬鹿にできる。見下せる。特異な存在だけにサブカルのアイテムにもなる。高田渡が好きと云えば、センスがよいと思ってもらえる。

 しかし、象徴だけに中身がない。発言に品も教養もなく、ただただ泥酔し、笑えない皮肉を並べ、程度の低い冗談で笑いを求める。肝心の音楽自体、単純かつ退屈極まりない。演奏についてもあの程度の弾き手はマイナーの世界にざらにいる。メジャーにならないのではなく、その実なれないだけのこと。その真実を覆い隠すようにメジャーを腐す。メジャーにならない理屈を並べ、周囲を煙にまく。そのくせメジャーへの嫉妬心は人一倍もっている。

 ゆえに貧しき者たちは高田渡に安心を覚える。この人は我々と同じだ。これでいいんだと思える。あるいは、あれよりましだと思える。あれぐらいにはなれそうだと自分を鼓舞できる。

 くりかえす。高田渡はマイナーの象徴だった。

――筆者はかつて、高田渡と千葉あたりで共演したことがある。その本番前、主催者に寿司屋へ連れて行かれた。席についてしばらくすると、当時の所属事務所のスタッフに云われた。高田さんに何か訊きたいことはないか。訊いといた方がいいよと。

 訊きたいことなどない。それ以前に、高田渡という人に興味がなかった。筆者はいまもってアーティストについては、プロアマ性別年齢ジャンルを問わず、美形か美声か美文の持ち主にしか憧れない。そう、筆者にとってアーティストとはあくまで「憧れる」あるいは「敬愛」する存在であり、「共感」や「安心」を得る対象ではない。

 不躾ながら高田渡など、筆者が憧れる条件にまったくあてはまらない。当時の筆者にとって高田渡は、口臭がきつく、身なりの小汚い初老の横柄な男でしかなかった。

 当然、投げかけるべき質問も浮かんでこない。しかたなく年上を持ち上げる際の一般的な常套句を使った。

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