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第24区 第二回

 第一章


 かつて作家志望の青年であった父は、あるとき不覚にも、自らが書きかけた物語のヒロインに恋をしてしまった。
   募る想いに身を任せ、父は作品世界へ迷い込む。
 驚くことに、そのヒロインも父の愛を受け入れてくれたという。
 二人が想いを交わしてから、およそ三年後、女の子が生まれた。
「それがお前だ」
 父は云った。
「三十五年前の今日のことだ」
 書斎でのふいな告白はそこで一旦途切れた。夢叶い作家として名を成したいつかの青年は、還暦も過ぎたいまアームチェアに身を沈めたまま手を伸ばして、落ち窪んだ目元に涙をにじませている。
「おめでとう」
 そして父はいつもの七月二十日と同じように、私に祝いの言葉をくれた。  
 やがて静寂にじれたような蝉しぐれがカーテン越しに鳴り響いた。次いで漏れ聞こえてくる若い歓声。午後三時の季節の色濃い合唱は海からの風に乗って、この高台の二階家に巣食う父娘の煩悶をやさしく触る。
 たまらなくなって、私はつとテラスへ出た。合唱はなお近づいてくる。木柵越しに目を馳せれば、東の岬へつづくケヤキの坂道を、白い制服たちが軽やかに下っていくのが見えた。
 紺のタイなら中等部の女子だ。私の教え子でもあり、可愛い後輩たちでもある。部活帰りに入り江の浜で遊んでゆくつもりなのだろう。不安だ。彼女らは心にとめてくれているだろうか。昨夜に起きた滑落事故を。
 事故の被害者は若い測量士だ。彼は東の岬から浜へ下りる崖の小径の途中で、縦に空いた高い洞へ落ち込んだ。
 致命傷は負わなかった。だが今朝の発見では救助に遅過ぎる。なにより落下の衝撃で彼の携帯電話は半分に割れていた。通報もできず、助けを求めるか細い声は長い洞の闇にすぐ溶けてしまう。
 若い彼は全身の激痛に夜通し身悶え、そして死んだ。
 土木局の発表によれば、現状あの浜に調査の用はなかったらしい。私用でならなおさら道を選ぶべきだった。いかに浜への最短路でも、崖のその小径は整備もなく足元が悪い。以前から使用不可として、入口出口ともに高い鉄柵と錠でふさがれていた。
 ただ古い柵だけに何かの拍子でうっかり開くかもしれない。子どもなら肩車なり知恵をしぼって乗り越えることもあり得る。今日の終業式でも壇上に立つ教師は皆、注意を喚起していた。浜へはもとより同じ東の岬から、崖を曲線につたう広い坂道が通じている。くれぐれもそちらを使うようにと、いままた彼女らに呼びかけたが気づいてくれない。坂を駆ける足音がただただ目にまぶしかった。
 合唱が止むのを待っていたように、父が私を呼んだ。
 呼ぶ声には嗚咽が少し交じっていた。痩せた、生気に足りない嗚咽だ。男親のそれは娘として長く聞いていたくはなかった。
 少し横になりたいというので、ベッドまで肩をかしてやった。歩みもごく遅い。モルヒネの投薬があるいまはまだましな方だろう。通常なら歩くどころか寝返りを打つだけで、背中を鉤爪でひっかくような痛みに襲われるらしい。
 痛みの元は癌だ。胃にそれが見つかったこの年明けから今日まで、父は二度身体を開いた。その度に転移がみつかり、病巣の根絶には至らなかった。 
 主治医からは、いよいよこの秋までもてば善しと告げられている。
 母のときと同じだ。一昨年の十月、彼女は告知どおりに、父よりも七年も若くしてその命を終えた。
 あえていうなら、そう、ヒロインらしく、何にあらがうことのない清々しい最期だった。
 その相手役はといえば、少々往生際に悪かった。妻の死に目に遭えなかったことが、彼の覚悟を弱めたのかもしれない。余命の宣告をうけてからは日々取り乱し、あたりかまわず生への執着をあらわにした。
 歴史物の大家の威厳もどこへやらだ。つく悪態も底をついてようやく、父は現実と向かい合う。そして口にした引退の宣言と在宅医療の希望。前者については、私が即時関係各所へ連絡をつけた。そこでいちいち病状を問われ、説明にも気疲れしたが、何とか皆さまにご納得いただいた。
 ただし退院は今日の終業式まで延ばした。在宅看護は父子ともに未経験だ。当分は娘の私が終日付き添うべきだろう。とはいえ学期途中の休職は、担任をもつ身として避けたかい。
 式のあと、私は名残惜しさをふりはらい、急ぎ病人を迎えに走った。
 父は終の棲家に、寝室ではなくこの書斎を選んだ。だが二十四畳あるはずの洋間は時を経て蔵書に埋め尽くされ、ベッドどころか座椅子一つ増やす場所がない。
 途方に暮れながらも、私は先週から業者の手を借り、蔵書のラックを地下の書庫へ移設した。書庫から溢れた分は私の部屋で引き取った。ほかに家中の段差の工事と医療器具のレンタルの手配も怠りない。
 苦労には感じなかった。娘として当然の務めだとうけ止めている。今後も不備が見つかれば、都度対応していくだろう。
 だが、なぜだろう。父を家へ迎えていまさら、私はその死を受け入れることに、いいしれない不安を覚えはじめている。
 「お互いしっかりしないとね」
 床につかせてから、私は父の痩せた頬につたう涙を拭ってやった。途端に、父は顔を横に向ける。その視線の先には一輪挿しがあった。ナイトテーブルの上で桔梗を生けた青磁のそれは、母の形見でもある。桔梗も母が愛した花だった。ただ通年は咲いてくれないので、いつからか造花を生けるようになった。
 嫌味のように延々と開く紫の花弁に向かって、父はまた頼りなく声をふるわせる。どうしたのと訊けば、「なんでもない。じきに落ち着く」と取り繕う。
「無理することないわ」私はいった。「ヒロインの夫なら主役も同然じゃない。周りを気にせず好きにふるまってよ」
「お前」父は怪訝に眉根を寄せる。「いまの話を信じるのか?」
「もちろんよ」
 あしらったつもりはない。ほんとうにそう思ったのだ。
 それに感謝もしていた。さっきの父の告白で、今日まで抱えてきた疑問の一切が腑に落ちたのだから。
 最高の誕生日になったと、私は父の手を強く握った。

 ただ一度、父に叱られた誕生日があった。十七歳になった私はその晩、最初で最後の家出を試みた。
 家出、あるいは駆け落ちのつもりだったかもしれない。
 駆け落ち相手は、J、という当時の恋人だ。
 JはJulyのJだ。七月にふいに出逢った人、として、のちにその呼び名をつけた。では本名はと訊かれても答えられない。嘘ではなく、いまの私は彼の名前はもちろん、その素性も思い出せないでいる。
 ただJの存在自体の記憶は褪せない。はじめて肌を合わせた相手ならなおさらだ。
 十七歳の誕生日にも今日と同じく終業式があった。式のあと、迎えにきたJと構内を歩きしばらく、私は手を引かれるまま記念堂へしのびこんだ。
 開学の記念堂だ。礼拝堂とも呼ばれていて、父の講演の常打ち小屋でもある。Jへの想いを告げたのはそこの屋根裏部屋だ。だれに気づかれてはいけないと窓は開けず、声をひそめて二人向き合った。やがてそこにたまる熱気に背中をおされるように、私はJの胸に飛び込んだ。
 告白を急いだのは、Jがその日で街を去ると聞いたからだ。
「僕にはこの街が合わない。だから出ることにしたんだ」
 一緒に来ないか、とJはチケット一枚、私の裸の胸に押しつけた。
 チケットの行く先はメトロとなっていた。かつてその名を口にするたび、私の胸は心地よく騒いだ。メトロは都市だ。ただの海街では決して得られない、流行の彩りに溢れた景色と日常があそこにある。
 まだ見ぬその憧れの地へ、Jは私を連れてゆくといった。
 夜になって、私は両親から誕生日の祝いをうけた。二人におやすみと告げてしばらくしてから隙をみて自宅を抜け出し、東の岬の丘陵へ向かった。
 深夜の岬はターミナルになる。待合のベンチの端に、私はJと並んで座った。
 そこで待つのは零時発の長距離バス。当時就航間なしのその夜行便は、公共では街出る唯一の交通手段だった。それがメトロ()行きとなれば人気は必至だ。ターミナルは徐々に待ち客で埋め尽くされていった。見覚えある誰彼の視線を避け、私はJのうなじに顔をうずめた。
 客たちの賑わいに煽られたのか、ふいな高波が崖をきつく叩いた。波とともに浜から吹き上がるのはぬるい海風。それが丘陵に群れる青草をはかなく揺らした。
 賑わいはやがて歓声へと変わった。バスが来たのだ。岬の丘陵の幹線を緩やかに下ってくる二階建ての青の車体は、ヘッドライトと月光を源にして、岬の濃い緑の闇の中に忽然と浮かび上がる。
 その幽玄とした画に見惚れる私にかまわず、客たちは我先にと乗車の列に並ぶ。降車の客には知った顔はいなかった。彼らは皆、賑わいをさけるようにいそいそと灯りのある街並へ消えていく。
 車掌と運転手の交替があったのち、乗車案内が叫ばれた。だがここにきて私の足はすくんだ。なぜだ。Jに手を引かれるまで、私はベンチから立てずにいた。
 おいでよと車内からも声が聞こえた。車掌も微笑で乗車を急かす。私は意を決してJのあとについてステップを一歩のぼった。聞こえてくる客たちの拍手。いまさら迷っても発車の時刻は訪れる。
 最終案内が聞こえたあと、私はJのとなりで車上の人となった。
 止めてと叫んだのは、幹線から山越えのトンネルへ入ったときだ。迫る闇に覚悟を問い直された気がした。ここからはノンストップでメトロへ運ばれる。もうあと戻りはできないよと。
「ほんとうにごめんなさい。私は行けません」
 急停車と同時に、となりで繋いでいた手が解かれた。拍手はもう聞こえない。車内にこだまする深いため息たちが私を座席から押し上げる。
 ステップを下りる前に、もう一度だけJの方へ振り返った。目を合わせてはくれたが笑みまではくれない。あからさまに顔を曇らせていた。
「君にはこの街が合っている」
 Jはそう云って私を手で追った。
 降りた途端に後悔した。だが途中停車のないバスだ。追いつけるはずもない。このまま歩いてトンネルを抜けようか。山道を抜ければたしかドライブスクールがある。あそこなら屋根もあるし夜を明かせる。だが朝になってそこからはどこへ向かえばいい? 次のバスを夜まで一人待つというのか。
 結局、私はトンネルから回れ右をして丘陵を下り、ターミナルへと引き返した。
 その途中で街へ下りる物流のトラックとすれ違った。メトロのナンバーをつけている。手を挙げると快く停まってくれた。私は泣きながら頼んだ。「いまのバスを追いかけて下さい」
 運転手はやはり無理だといった。そして半ば強引に私を岬まで送り届けた。
 葬列が去ったあとのような重い静けさを抱えこんだターミナル。そこでは、父が腕組みをして娘の帰りを待っていた。
 抱きしめられたあと、頬を一度張られた。
 だが私には父の叱責よりも、別れ際にJがくれた言葉の方が堪えた。

 ――君にはこの街が合っている。

 在宅医療にあたって、父は入院先にホスピスケアを要請していた。明日から一日おきに専門医とナースの二名が朝夕と通ってくれる。週四回の訪問は通例になく費用もかさむ。だが父は娘の負担を慮り、その特例の契約を結んだ。
 今日はまず、説明を兼ねてのプレサービスを受ける予定になっていた。
 契約どおり、午後四時丁度にインターホンを鳴った。出迎えてまず、私は医師から謝罪をうけた。担当ナースに交替があったらしい。たしかに病院で紹介をうけたナースは、私と同年代で眼鏡もかけていなかった。
 だが後任の彼女が父の愛読者と聞いてほっとした。医師もそう。父の作品ですっかり歴史マニアになったらしい。
 二人とも、この老いた作家の引退を心から惜しんでくれた。
 ねぎらいのこもった医師の問診は、はた目にも丁寧に過ぎた。父の怠惰な口調に退院の疲れが出たと見たのか、手早く点滴の準備にとりかかる。ナースの方も抜かりがない。その間に入浴をすすめてくる。バスもトイレもこの部屋とは廊下を挟んだすぐ向かいにあるが、父はすげなく断る。ナースはめげない。濡れタオルで父の顔から首元を拭き始める。父もついには観念して身体を預けていた。
 しかしナース曰く、前任者の方がもっと気がつく人だったという。それが午後に突然、辞表を提出した。夜行のバスのキャンセル空きがとれたからと。そして今夜、恋人と二人、あのバスに乗り込むのだそうだ。
 ただしバスの行き先はメトロではない。シティだ。
 西の岬から出る下り便の行く先がそこだ。シティ便の開通はメトロ行きより、たしか二年後のことだった。
 シティは文化の発信地と知られ、若年層に人気が高い。
 だがその人気の実際をたしかめた者はいない。案外、変わり映えのしない街なのだろうという噂もある。
「あの子もきっとがっかりして、じきに戻ってきますよ」
 ナースはふと呟くと、父の前を閉じる。
 戻ってきてくれたらどんなにいいか。私は言葉を呑み込んだ。父もだまってまた横になる。
 途端に気鬱が書斎に立ち込める。私は点滴が終わるまで、医師らを一階のリビングへ誘った。そこでの話題はモルヒネの効能やホスピス医療の本質。測量士の不幸に一同顔を暗くしたあとにはやはり、前任の彼女のことが口の端に上った。
 彼女の不義理な辞め方に、二人は見送りに行くか迷っているようだ。
「行った方がいいですよ」私はうつむいたままいった。「なんというか、でないと一生後悔されると思います」
「そんな大げさな」二人は顔を見合わせて笑う。
「だって、今日会っておかないと、明日には忘れてしまうかもしれませんよ」
 二人は信じない。だがJがそうだったのだ。彼についての記憶は別れた翌朝から薄れていった。
 まずは連絡先から。次に名前と顔形。喪失感の裏返し、あるいは一過性のものだとやり過ごしたが、その症状は止まらない。Jの写真は携帯電話に保存してある。だが画面を何度見返しても、そこに笑顔で写る人物に見覚えはない。
 好きになった理由すら思い出せなくなったとき、私は再びあのバスに乗ろうとした。
 相手の居場所はわからないが、行けばどうとでもなる。そう思って今日まで何度、ターミナルで一人、バスを待ったか知れない。
 しかし最終案内が聞こえるたび、私はベンチから腰を上げられなかった。 
 気づいていたからだ。Jにかぎらず、あの夜の乗客が一人として、いまだ街に帰ってきていないことに。
 あの夜の乗客にかぎらない。行き先問わず、今日まで街から出る夜行のバスに乗り込んだ者すべてが、だ。
 行ったきりで無事ならまだいい。その消息が不明なことはもちろん、彼らが存在した過去自体も、この街の歴史から消されている。
 ありえない。けれども、ここが父のいう物語の世界ならどうだろう。
 街から消えたことを作中から退場したと置き換えてみればいい。物語の常として、退場者の多くは、以後何のエピソードにも絡めず、その存在すらも必要とされなくなる。
 メトロの闇に消えた彼らは、自らその作中の舞台をおりたのだ。
 いうなれば、彼らはエキストラだった。肩書をももたず、描写のすき間を埋めるごく凡庸で無機質な存在。
 その使い捨ての役目を終えた者たち、あるいはそこに収まることに不満を抱いた者たちは、あのバスに乗り込み物語から消える。街へは二度と戻れない。彼が去ったあとのすき間はおそらく、同じバスでこの街に降り立った者たちが埋めてしまう。
 そう、私は消えるわけにはいかなかった。
 物語上の仕組みとして、ヒロインの娘なら端役とはいかない。肩書きも先々の台詞も延々と与えられる。作者の指示なく退場することは許されない。
 だから、私はあの夜もバスを降りたのだ。
 それに気づいたとき、私はいつかメトロへの憧れを失くした。
 Jの云ったように、私にはこの街が合っている。
 あの夜に彼とつないだ手をふりきった贖罪ではないが、私は今日まで、J以外の男と何の約束も交わしてこなかった。
 ただのイニシャルや面影の記憶しかない人を想いつづけるなど、一度きりにしたいからだ。

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