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アイデンティティは僕も知らない



評について最近思っていること。

私はインターネット素人うたんちゅなので今、同じく歌友(と私は思っている)ネッ友さんたちだけから評をもらい、また彼/彼女宛に書いています。基本的にうんうんよしよししてもらっており、それが間違いなく歌を作る励みになっています。



ただ、他人が評、批評を書くにあたり、作者(すしむらの、リアル中の人)と紐付けたがる人がいることに気がつくようになりました。
歌を作ることはどの歌にも中の人(すしむらではなくさらにリアル一市民としてのわたくし)が否めなく滲み出がちだと思うし、それを8首程度なら技術で隠せても(※1)、それが30になると、もう避けられません。
※1:作品だけを読んだ高校生から、私が同じく高校生歌人だと信じられていたことが、ありました。



ただ、それでも作者と作中主体と、を切り離して解読する、そんな読み方を意識してやってくれるかたのほうが私は誠実だと思います。どうして紐付けに拘るのでしょう?誠実かは言ってられない(文字数が稼げないとか?)で作者の情報をつらつら分量書く理由があるのでしょうか。



この小説は村田が失恋したときだからおそらくその影響で○○が舞台、次作のこの小説のヒロインの性格の××さは、村田の政治的な信条をトレースしているはず、初めて子供が産まれて気分が高揚したことがこのラストシーンに投影されているのに違いない、そしてこの直近の破綻した文体は本人が精神科に通院している時期と被る……エトセトラエトセトラで(今は例えとして小説、にしましたが)、人の年表を作るみたいな批評を書かれてしまったら、嫌だなぁ、それが頓知気プロファイリング、雑な心理分析をされた見当ちがいなものならば、もっと嫌よね、と感じています。



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