〝「共生」としてのアナキズム〟批判

アナキズムと文化人類学の接近

 アナキズムは近年ブームになっており、かつその勢いをそれなりに維持し続けている。(執筆から公開まで間が空いてしまった。さすがにもうブームは下火だろうか。)2017年出版の森元斎『アナキズム入門』、2018年出版の栗原康『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』、2021年出版の松村圭一郎『くらしのアナキズム』が有名だろうか。2022年4月号の『文學界』では「アナキズム・ナウ」と題した特集が組まれ、冒頭にこの3人の鼎談が掲載されている。
 この近年のアナキズムブームの大きな特徴の一つに、文化人類学との接近が挙げられる。このブームの立役者たちが議論の導入に使わないではいられないのが、『負債論』『ブルシット・ジョブ』で知られるアナキストのデイヴィッド・グレーバーである。2000年代前半に起こったブーム(※)の尾ひれにというべきか、今のブームに先駆けてというべきかはわからないが、2006年には彼の『アナーキスト人類学のための断章』が邦訳されている。おそらくは彼を通じてアナキズムに文化人類学が導入されたのだろう。というより、アナキズムが内包していた文化人類学的な部分が「復権」したというべきかもしれない。この文章では、このアナキズムと文化人類学の接近が(を)招き寄せた問題を明らかにしたい。
 アナキズムに「入門」しようとする者が何の事前知識もなく書店に行ったなら、おそらくは栗原康『アナキズム』か、森元斎『アナキズム入門』を手に取ることになるのではないかと思われるが、文化人類学的特徴が色濃く表れている後者を適宜参考に挙げたい。実際、森のアナキズムは、私が以下で述べる問題の根本に近いと感じられる。今回のテーマに関しては、文化人類学の側からアナキズムに接近した松村圭一郎を参照するべきだったかもしれないが、彼の著作『くらしのアナキズム』は市内すべての図書館で借りられていた(ブームを証明している)ため入手できなかった。わざわざ買ってくるほどの興味を私はアナキズムに対して持っていない。

※ 2002年7月に、『批評空間』が「アナーキズムと右翼」を特集。続いて、2004年5月、『現代思想』も「アナーキズム」の特集を組む。さらに同月、「現代日本思想体系」シリーズの「アナーキズム」の巻の簡易版リメイクに相当する浅羽通明『アナーキズム』が出版された。

お節介なアナキズム

 興味がないアナキズムをなぜわざわざ批判するのだろうか。それは、森らのアナキズムがウザいからである。
 グレーバー自身がそう表現するように、文化人類学は「人類の総体を一般化」しうる学問である。森のようなアナキストというよりはヒッピーと形容したくなるような連中は、「同じ人間」として、私を「非本来的な」あり方から「救済」しようとする。
 ヒッピーとほとんど会ったことのない私は、現実にはヒッピーに憐まれたり「救済」を「施さ」れそうになったことはないが、しかし原理的にはヒッピー的アナキズムは他人を「救済」せずにはいられない、少なくとも他人を憐れまずにはいられない思想なのである。
 今述べたように、以下の批判は原理的なものとなる。つまり、その原理的批判がほとんどそっくりそのまま当てはまる森を引き合いには出すものの、森元斎個人を批判すること自体は目的ではなく、それに象徴されるような近年の(存在自体はずっとしていたのかもしれないタイプの)アナキズムを批判するということである。

文化人類学がアナキズムにもたらすもの

 アナキズムが文化人類学を取り入れることの問題を述べる前に、その補助線として、なぜアナキズムが文化人類学を導入するに至ったのかを考えたい。おそらくこれには2つの理由がある。
 1つ目は、アナキズムの実現可能性を証明するためである。文化人類学は、政府なしで自己統治しているどこかのコミュニティの例をもたらしてくれる。自己「統治」の例を、である。
 2つ目に、アナキズムの持つ「共生」の側面を前景化させるためである。文化人類学は、政府なしに平和に暮らす人々の実例を通じて、新たなアナキズムのイメージを描き出す。そして、「反逆」のイメージを払拭・隠蔽する。
 これらを踏まえて、私の主張は次のようにまとめられる。アナキズムが実現可能かどうかなんてどうでもいいのであり、変にこじらせたインテリ左派学生くらいにしか需要のないアナキズムの意義は(せいぜい)「反逆」にあるのではないか。
 
今回は特にアナキズムの1点目の実現可能性の議論に焦点を置き、それを議論すること自体の危険性を指摘することとしたい。
 2つ目の理由に基づいて、以下では、問題にする今流行りのアナキズムを「共生」としてのアナキズムとでも呼びたいと思う。

アナキズムvs.社会契約説

 「共生」としてのアナキズムにおいて、「アナキズムは可能か」という問いは、「権力のない空間を創出・維持することは可能か」という問いを意味する。この問い自体をめぐってアナキストと「懐疑論者」とは、「権力のない空間が可能であったとして、そこには混沌と暴力が生じないと証明することはできるか」という点で対立する。言ってみればこれは、「性善説を『証明』できるか」という問題である。性善説を証明できないからこそ、権力は正当化されてしまうのだ。性善説の証明とは、性悪説的な「自然状態」を仮構する社会契約説との正面衝突なのである。

性善説=疎外論

 性善説とは疎外論的な発想である。疎外論とは、「人間」には「本来的な」生き方(本来的な労働)があって、資本主義などの支配や権力によって人間はそれを抑圧され、奪われ、「非本来的な」生き方(非本来的な労働)を強いられているとする考え方のことである。
 「性善説=疎外論」というように等号で結ぶとすれば、そこにおける本来的な生き方とは、人間は「本来的に」助け合って生きていく(ことができる)ものだ。そして、「共生」としてのアナキズムにおいては、しばしばこれを、アナキストのクロポトキンに倣って「相互扶助」と呼ぶ。森の著書から「疎外論的発想」が見やすい部分を引いてみよう。

国家なんかは要らない、権威なんかは要らない。誰もが迷惑を掛け合って、助け合う。それでも大丈夫。本当は、みんな優しい。ちょっと資本主義のせいで、意地悪な気持ちになってしまっただけなのだ。ちょっと権力のせいで、嫌な奴になってしまっただけなのだ。

(森元斎『アナキズム入門』p. 216)

 これだけでも十分に無意味な議論である。人間とは「本来的には」こういうものだ、と示すことは誰にもできない。というより、今ここにいる私が私であるにすぎないように、個々人は個々人であるにすぎない。しかし、そうではない「本来の人間」を生み出すのが疎外論的発想である。
 「私」は「私」であるにすぎないにもかかわらず、疎外論的発想においては、「私」は非本来的な生き方を強いられている(あるいは、本来的な生き方を実践している)ことになってしまうのだ。
 疎外論的な発想に基づけば、例えば、「世の中をよくしたい!」と思っている心優しきアナキストの人々に対して、こんなふうに攻撃的な文章を書いているコース長は、資本主義やら何やらによって「人間」が「本来的に」持つ「優しさ」を失ってしまったといえるかもしれない。ああ、なんてかわいそうなコース長! と、このように疎外論的アナキズムは原理的に「私」の生き方に介入してくるものなのである。
 ウザい、ムカつく。これだけでも疎外論=性善説を退けるには十分な理由だと思うのだが、その危うさをより明示的に述べよう。
 「本来的な生き方」という発想は、記述的な装いの規範である。「ほんとうはこうなんだ」と事実を述べる口振りで、新たな「人間」像という規範を作り出す。この「人間」像に合致しない者は、「非本来的な生き方」を強いられているかわいそうな「救済の対象」であるか、あるいは「人間」ではない! 「本来的な生き方」を唱える者は、自分たちと同じように考えない者に(主体としての)居場所を与えないのである。

〝事実〟であることの危険性

 疎外論=性善説的アナキズムは、文化人類学と融合することでその危険性を増す。今流行りの「共生」としてのアナキズムは、疎外論=性善説を、科学的な装いの学問によって「裏付ける」のである。
 性善説と性悪説の対立は、「人間は本来的に助け合って生きるものである」というフィクションと「人間は本来的に他人のことを顧みないものである」というフィクションの対立である。それは根拠なき信念であるという意味でフィクションでしかない。
 一方、「共生」としてのアナキズムは、「万人の万人に対する闘争」というフィクションを、「共生」の「事実」によって覆そうとするのである。反論が困難である「科学的事実」はフィクションにすぎなかった「本来的な生き方」を抗えない「真理」へと押し上げる。
 その「事実」はときにフィクション以上にフィクショナル=規範的である。「本来的な」「人間」像に合致しないものは、「非本来的な生き方」を強いられているかわいそうな「救済の対象」であり、そして「革命後」にまで「非本来的な生き方」をしている者は、「前時代の残滓」であるか、あるいは「人間」ではない、ということが「科学的に証明」されてしまうのである。
 森が紹介するクロポトキンはもっと露骨で、なんと生物学に依拠するのである。クロポトキンの生きた時代には、社会的ダーウィニズムが幅を利かせていた。社会的ダーウィニズムの「弱者淘汰」に対抗する形で、クロポトキンは、ダーウィンが言ったのは相互扶助を行うことができた種がより繁栄するということであり、その種こそ我々「人間」である、と主張する。これを受けて、森は次のように述べる。

そして結論を先んじて言おう。常に相互扶助の精神で生きてきたアナルコ・コミュニストこそ私たちの祖先であるし、私たちはアナルコ・コミュニストであるべきなのだ。それこそまさに「自然状態」なのではないだろうか。

(前掲書p. 162)

 我々「人間」は「本当は」みんなアナキスト! 「相互扶助」をしない者は「非本来的な」生き方を強いられているか、あるいは「人間」ではない。
 私のここまでの括弧の使用からおわかりのことと思うが、そもそも「人間」と言ってしまうことが、疎外論的発想の根源なのである。

「反逆」としてのアナキズム

 性善説=疎外論がこのような一種の「レイシズム」に転化し、「人間」でない「それら」を抑圧し、「無支配」というアナキズムの原理を裏切ってしまうならば、「共生」としてのアナキズムは退けられるほかない。
 この時点で「アナキズム」それ自体を放棄してもいいと私は思うのだが、まあ、一旦アナキズムの潮流の中から「共生」としてのアナキズムに対抗しうるものを見出すとすれば、それは「反逆」としてのアナキズムとでも呼ぶべきものである。
 「共生」としてのアナキズムが来たるべき権力廃絶、疎外論的発想に基づきヒッピー的な「ユートピア」=「革命後」の世界を目指すのに対し、「反逆」としてのアナキズムは「革命後」の理念を持たず、永遠の反権力であろうとするものである。
 このような「反逆」としてのアナキズムは社会契約論=性悪説との正面衝突を避けることができる。「反逆」としてのアナキズムは、(とりあえずは社会契約説において)権力の根拠は「自然状態」というフィクションにすぎない、と告発すればすむ。「反逆」としてのアナキズムにとって、代替案=「革命後」の世界などどうでもいいからである。対比的に、森を引いてみよう。

クロポトキンによれば、自然において相互扶助は常態であり、それが私たちを含む自然の倫理である。人間だけでなく動物も、植物もだ。それはもはや本能であり、私たちの欲求ですらある。私たちは生きたい。その時に相互扶助は、なくてはならない。私たちに倫理というものがあるならば、そこには相互扶助が常にある。それがアルファであり、オメガである。先にも述べたように、ホッブズを大々的に批判している。ホッブズの自然状態なんて全くもって仮構のものでしょう、と。またプルードンをも批判する。プルードンからすれば、倫理や道徳は法律によってこそ規定されるものであるが、クロポトキンはそうではない。倫理とは欲求であり、私たちの、自然そのものなのだ。

(前掲書pp. 166-167)

森もホッブズの「自然状態」が仮構にすぎないことを告発するのだが、その仮構を破るために「科学的事実」に基づいた「自然」という代案・根拠を提示する。対して、「反逆」としてのアナキズムは「勝つ」必要がない、というより「勝ち」に興味がないので、代案・根拠を示さないのである。「なんでフィクションに従わなきゃいけねえんだよ!」と暴れまくり、「じゃあ、より有効な嘘ないし真実を提示してみろ」と言われたら、「うるせ~!」と言ってまた暴れまくる。
 説得力も根拠も必要としない、限りなく勝ち目のないこの「反逆」の道はしかし、危うい議論で自らを正当化し、新たな恐怖になってしまうよりははるかに好ましく思える。可能なる「革命」より、不可能なる「反逆」を。

「反逆」、アナキズム抜きで

 アナキズムの系譜にそういう「反逆」的なものがあるのは確か(?)なのだが、先に触れたようにわざわざアナキズムという必要はない。アナキズムなんて言っていると、「共生」としてのアナキズムを奉じる連中が群がってくるだけである。
 そこで、〈焼き畑〉コースとしてはやはり、「アナキズム」なんて言葉を掲げないことを提唱する。アナキズムという歴史的?哲学的?な後ろ盾を求めずに、「反逆」それ自体に邁進することを。

 「共生」がしたければ、「身内で」お好きにどうぞ。


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