貨幣に対する考えを私たちは変えられるか。それが社会に関する究極的な問いである

「究極的な問題は、貨幣を私的に所有可能な力とみなしがちな私たちの思想を変革できるかどうかなのである。古代のギリシア語で貨幣を表す「ノミスマ」と言う言葉は、本来制度を意味していた。そして、貨幣とは長らく金が象徴してきたような神秘的呪物ではなく、法のような制度であるとするならば、貨幣の力は近代法と同様に、自由、平等、公正の民主主義の原則に従って行使されなければならない。このことを認め得るかどうかに、私たちの未来がかかっているのである」

貨幣を持つことで社会的なリソースを私的に自由に利用できる。それを僕たちは日々経験しているし、それが貨幣であると思っている。それはとっても便利で快適だけど、逆にそれがないと不便で困ったことになる。だから僕らの社会生活は、お金を得ることが中心になって回っている。まるで僕たちは貨幣という飴と鞭で調教されているかのようだ。そしてそんな風に飴と鞭で社会的に調教されることに、いろんな問題を日々感じているのは、みんなよくご存知の通り。

しかしもし貨幣が社会的な制度であるならば、そしてそうなのだけれど、別の貨幣をデザインし、制度化することができる。

自分を含めて全ての人にとってどのような貨幣がもっとも良いのか。関さんが語っているように自由、平等、公正の民主主義の原則に則って新しい貨幣のデザインを考えるのがよい足がかりになだろう。どんな貨幣が、便利で快適で、飴と鞭のような強制的なものを生み出さないのか。

そう考えると、解のひとつとして「公共貨幣の発行と公共貨幣の国民配当」があると思っている。もちろんもっとよい最適解が発見される可能性も残しておきたい。

みんなはどう考えるのだろうか。

関曠野『ドルよ驕るなかれ しのびよる世界通貨危機』

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