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夜明けの歌、誕生秘話 #信長の野暮

舞台『信長の野暮』オリジナルサウンドトラックのサブスク解禁を記念して、
クライマックスで流れる楽曲『夜明けの歌』について、誕生のエピソードを楽曲制作の福永健人さんが書き記してくれました!
福永さんの人柄が存分に溢れる文章を、ぜひお楽しみください。


書き手:福永健人(airezias)


エピソード1:spiさんとの収録

はじめ『夜明けの歌』は福永が歌う予定であった。
『信長の野暮』劇伴の作曲を担当した私、福永は実は「airezias」というバンドのボーカルでもあるので、歌唱を兼任・担当しよう、と思っていたのだ。

ところが完成したデモを稽古場で流しているときにspiさんが「これ、俺歌っても良いよ、歌いたい!」とアイデアを出してくれた。福永はほとんど話したことないのだけれど、spiさんってとにかくそういう、粋な人みたい。劇団のみんなから聞くエピソードがもう、そんなんばっかりで。伊達男。

福永はその場にいなかったので詳しくは劇団員のみんなにきいてほしいけれど、とにかくspiさんからそういう提案があった、という報告のLINEが主宰・佐藤慎哉から届いたのだ。

それから数日後、稽古ド真っ最中にもかかわらず、異例の【稽古後レコーディング@稽古場】を行う。福永が稽古場にお邪魔させていただいて、稽古場の更衣室に家から持ってきた大量の録音機材をセッティングする。更衣室の薄ーいドアの向こうでは、機材セッティング中も熱心な稽古が進行しているのが漏れ聞こえている。

稽古を終えて、もうヘトヘトだろうし、すぐ帰りたいはずなのに、みんな著しい明るさで福永に挨拶をしてくれる。その明るさっていうのは、皆さんが劇場でよくよく見知っているであろう、あの明るさである。彼ら、舞台上だからああいうキャラクターなんじゃなくて、いつでも、普段からああなんですよ。

メインボーカルをspiさん。コーラスパートをspiさん、忠津くん、大迫さん、渡辺くんに歌ってもらう。一人一人更衣室に入ってきて、ヘッドフォンをつけて。First takeとかで観る、ああいう感じでマイクに向かって歌って頂く。眼差しだってもちろん、First takeと遜色ない真剣なもの。ただし背景だけが、圧倒的に更衣室であり、雑多にモノが置かれている。(雑多なモノは吸音材として一役買っている。かなり映えないけど。)

客演さんたちには先に帰っていただきつつ、録音の間も劇団員は居残って、ヤジを飛ばしたりして楽しんでいる。端々の状況を知っている福永からすると、彼らが稽古や運営であんまり寝れておらず、実は大変お疲れであることを知っているのだが。状況を一切知らずにその様子を見たら、さっき遊びに来た元気な人たちかな?としか思えないくらい、元気いっぱいである。

ドアのところに主催・佐藤慎哉がいて、録音が始まると「録音しまーす!」とみんなを制して静かにさせ、シーンとしたら福永はRecボタンを押す。1テイク取り終わると今度は「今は騒いでOK 」の合図をみんなに出す。そうするとヤジとか歓声が飛んでくる。こういう場合にも仕切るのは慎哉くんなんだね、このチーム。

更衣室改め「俺たちのレコーディングブース」の中でspiさんと福永が歌のテイクを確認して、ここをもっとこうしたい、みたいな相談をする。

spiさんと福永は音楽に携わっているために専門用語?というかなんというか、普段使っている言語がそのまま通じて、仕事っぽい感じで話せる。そしたらドアのところにいた慎哉くんが「なにその、二人だけの世界…俺も混ざりたい…でも何言ってるのかわからない…」34歳のがっちりした男が、異界のコミニュケーションに面食らって、薄ーいドアの前で妙〜なイジけ方をしていた。
君はすごい本を書ける天才なのだから、そのままでいいんです。そんで今俺はspiさんとラブラブなので入ってこないでください。

録音も後半、ふとしたアイデアで間奏部分にセリフを入れてみないか?と福永から提案した。劇伴としてサムイ感じになるならやめるから、お試しで、と弱腰な提案の仕方で。ところが実際に役者のみなさんにマイクに向かってセリフを読み上げていただくと…もう役の、というか、別の命が言葉に吹き込まれている。
たった一行二行にキャラクターの形質が溶け込んでいるのだ。
マイクは動作も、表情も、拾ってはくれない。けれど、録音されたセリフたちは明らかに、動作も表情も伴っている。役者さんってすごいな、とあらためて思った瞬間だった。

※以下は別に撮った劇団員バージョン



エピソード2:どうやって作られたのか


さて、そもそも。
きっと、福永が素直に「あのシーン」に音楽を当てるとするなら、インストゥルメンタル楽曲(歌が入っていない曲)を作ると思う。

なにしろ情報量の多いシーンである。お客さんの中から「目が足りない!」という悲鳴の感想が漏れるほど。それまで積み上げてきた伏線が全て収束していくあのシーンは本作の醍醐味、音楽で言えば大サビみたいな部分だ。

それでいてただのカオスにならず、単純なギャグにもならず、どこか情緒に訴えかけながら、スッキリと泣き笑いさせてくるアナログスイッチは…すごいな、と思う。

で、そんな"情報の洪水"のようなシーンに「歌」が入るなんてのは言語道断、と思うんです。素朴に。曲は絶対に当てた方が良いんだけど、歌ってものは。声の成分は単純に帯域がセリフと被るし、やっぱり歌があると音楽に顔みたいなものが浮かび上がってしまう。こんなにたっくさんの人物がいっせいに登場するシーンに、音楽にまで「顔」があったら、胃もたれしそうだ。

…と、福永だけが勝手に考えたらそう思うのだが。
実は2018年に行われた『信長の野暮』ではこのシーンにはSuper Butter Dogの楽曲が当たっていた。

前回公演では諸事情あって福永は作曲を担当していなかったのである。いわゆるJ-pop楽曲、もちろん歌モノである。そしてお客さんにも、役者さんにも、きっと佐藤慎哉センセーの中にも。2018年『信長の野暮』のイメージは、すでに根付いている。根を張って、芽を吹き、花を咲かせているに違いない。

それらの印象はすでに作品の一部であると考える。
ここで福永の個人的な趣向を押してインストゥルメンタル楽曲を制作するのは、もはや作曲家の傲慢であるように思えるのだ。従って今回このシーンに当てたい楽曲のポイントを整理すると以下のようになる。

・前回公演を観てくれた人も違和感なく観劇できるような、味の濃いジャパニーズポップス調の歌もの楽曲。
・と同時に情報量の多いシーンをスッキリと観られるだけの恰幅の良い楽曲。

うーん。矛盾!
でもこれを叶えたい。

更に。あのカオスの中にも明らかにダイナミクスがあるんです。
しっとりとしたターンもあるし、各々が持つ感情には複雑なものがある。
多面的で複合的で、でも真っ直ぐしていて気持ち良い。
スッキリと朗らかな色合いの多面性を、音楽が阻害することなく。
むしろ、邪魔をしないようには気をつけつつも、歌を入れて、色濃く補強したい。
劇伴作曲家というものは、いや、他の作家さんがどうかは知らないけど。
福永はこんなことを考えながら、曲を作り始める。

…かくして、イントゥルメンタルでなく、歌の入った、J-pop調で、それでいて恰幅の良い、あの『夜明けの歌』を作ることになった。

そして、その楽曲をひょんなことから役者さん達に歌ってもらうことになって、一層の生命を持った点については、前述のとおりである。

『夜明けの歌』 歌詞

散文的な街並に 色を射す空の彼方
遥か昔から届く 星の粒が踊っている
反対車線のガラス越し
目が合って すぐにそらす
急ぐ駅に
騒がしい無音が鳴り響いている
乱文的な心情に 色を増す夜明けの歌
遥か遠い鼻歌が 同じメロディ
鳴かぬなら出逢わずに
生きていたいよホトトギス
過去を未来が染めてゆく
君のことを想っている

…藪から棒だがこれは『夜明けの歌』の歌詞である。
この歌詞自体は福永が書いた。しかし、その前段として、佐藤慎哉パイセンからイメージポエムをもらった。

※イメージポエムは、記事の最後に有料版として特別公開いたしますので、読みたい方はぜひご覧ください!

慎哉くんに「歌詞、書いてみなよ」と言ってみたのだが「えーやだやだ」と取り合ってくれなかった。書けるわけがない、とか言って。いやー、なんか書けそうだけどなぁ。
じゃあ福永が書くから、とにかく思いつくキーワードを羅列してほしい、とお願いした。そして最終的には「イメージポエム」を書いてくれた。
音楽に節を合わせたものではなく、イメージする単語から導き出されるセリフであったり、状況であったり。

実際のところ。そのイメージポエムに書いてあったシチュエーションや言葉を「そのまま具体的に引用して書いた詞」は一節もないのだが。
言葉の直接的な設計図として、ではなく、ニュアンス/味わい/雰囲気のような、言語外に溢れ出す何かを、大いにそのイメージポエムから踏襲して歌詞を書いた。

福永の感受性に委ねられたそれらのポエムたちが、福永の中で芽吹いて出てきたのが上記「夜明けの歌」の歌詞である。
(実際には天から降ってきた、みたいな天才っぽい感動的な作り方ではなく、いっぱい手を動かして色々書きまくって作った、というだけなのだが)

もう少しだけ突っ込んだ説明をしたい。
簡単な例を出すとするなら…「ふとんがふっとんだ」という駄洒落を言うとする。この時「布団」が「吹っ飛んだ」という意味合いを伝えるために言っているわけではない。
「ふとん」と「ふっとん」が似た音である(韻を踏んでいる)ということ。
遊び心を表すために、この駄洒落を言っているのだ。
別に「布団」も「吹っ飛んだ」も遊びの名称、ってわけではない。
なのに。この時「ふとんがふっとんだ」は言葉の意味を超えた遊びの世界に、音韻という面白さで紐付けされて成り立っているのだ。(何言ってるか伝わりますか…?)

詩(詞)というのは、例えばこんなふうに、意味を超えたところで言葉が接続されていく。(広い意味で)快感の言葉の連なりなのだ、と福永は思っている。

そういう意味で、歌詞の「この単語はどういう意味ですか」みたいな問いに対してはあまり余分な解説を加えたくはない。脂肪を増すだけである。あなたや、あなたが、思ったままが良いと思う。

もっと言おう。きっと説明など不可能なのだ。
言葉を「超えた」時点で、言葉で説明はできないのだから。
だから、あなたや、あなたが思った以上の答えが詞(詩)にあるはずがない。

この歌詞が(しんやくんのイメージポエムや『信長の野暮』という作品が福永にそうしてくれたように)誰かの詩的な部分に言葉そのものを超えた雰囲気として芽を吹いてくれたなら…それほどの喜びはない。なんて思う。

事前ミーティング

公演の約1ヶ月前。アナログスイッチ主宰・佐藤慎哉くんと、郊外のあんまり清潔とは言えない安い喫茶店でミーティングを行う。時代錯誤な紙の台本を慎哉君が印刷してきてくれた。我々二人は、なんだかこういう、手触り、みたいなものが好きである。今やipadで良いものを、未だに紙とボールペンで行っている。

前述の通り2018年の『信長の野暮』の公演では、福永は音楽を担当していない。
これまでのアナログスイッチの作品はほとんど担当させて頂いているものの、諸事情あって前作では音楽を作っていないのである。

前回公演では音楽のために作られた音楽、いわゆる「ポップス」を劇伴音楽として使用していた。それについて、2点の問題を感じていた。

1点め。音楽のために作られた音楽は当然、劇伴のために作られていないので、味が濃い。それ単体で料理として完成して、お皿に盛られる音楽だ。一方(福永の考えだと)劇伴音楽は調味料や香辛料のような立ち位置が良い。極端に言えば、観劇後に、ほとんど誰の記憶にも残っていないようなものが良い。覚えているということは、味が濃すぎた、ということだ。メインディッシュの邪魔をしてしまっている。

しかし!なにしろ前回公演では少なくともそういったポップスを用いて1度成立させている。それは如何ともし難い、確固たる事実である。つまり、お客さんの中にも、役者さんの中にも、佐藤慎哉の中にも。ポップスが当たっている『信長の野暮』のイメージがある。
それを無下にすることは、とてもじゃないけどできない。それは作曲家の傲慢というものだ。…というのは前述の通りである。

2点め。こちらは手短に。その上で、福永はいわゆるポップスを作るのが単純に苦手なのである。少なくとも自分ではそう思っている。

だから最初のミーティングで。
煙たい喫茶店でタバコを吸いながら福永は開口一番、こう言った。

「今回は多分、福永じゃない方が良いと思う」

そして、上に書いたような印象を話した。福永より「信長の野暮」の劇伴音楽を上手に作れる人が、きっといるはずだよ、と。もちろん謙遜のつもりではなく、自我を捨てて作品を最もよく仕上げることを考えた時に、それが最適解であるような気がしたのだ。

そんな福永の説明を慎哉くんはうんうん、とか、なるほど、とか言って最後まで丁寧に聞いたのちに、福永が話し終えると、ほぼノータイムで、しかも無表情で、こう返した。

「でもアナログスイッチの音楽は福永健人だろう」

ホントに話聞いてた!?
……でも、福永はその一言を聞いて、覚悟を決めることにした。

覚悟というのは、自分がこれまでに培ってきた得意とか、技術とか、個性とか、カラーみたいなものと、この公演に当たっては一度決別する、という覚悟である。不得手だと思う楽曲やサウンドに対して、苦手だ苦手だと思うのをやめて、ゼロベースからアプローチする、という覚悟である。自分である、自分だからこそ、みたいな価値を、一度完全に手放す。

そういうチャレンジングな態度で作曲を始めることにした。そんなことになったのは佐藤慎哉のエモい一言が原因である。つまり、福永は、結構嬉しかったのだ。

出来上がってみて思うこと

ここまで読んでくれた人ならもう薄々わかっているかもしれないが、こうして完成した「夜明けの歌」を含む10曲+αの劇伴曲を前に、福永は不安でいっぱいであった。

ー自分がこれまでに培ってきた得意とか、技術とか、個性とか、カラーみたいなものと、この公演に当たっては一度決別する、という覚悟である。ー

先ほどこう書いた通り、福永は今回、生まれてこの方やったこともないようなサウンド・手法・曲調に手を出した。いわば自分がこれまでに蓄積してきたフォーマットの全く通用しない、未知の世界。ある意味生まれて初めて曲を書いた、全くの素人のような。それがいきなり人前で、作品のためにかけられる、というような緊張。更に言えばそれがもし仮に褒められたとして…「それはもはや、福永のカラーですらないしなぁ」とも思っていた。

でも。
出来上がった劇伴は劇そのものとともに大変に評判が良かった。そして、普通に福永らしい楽曲でもあったらしい。(なんでだろう)もっと嬉しいことに、とってもアナログスイッチぽかった、と言われた。前回公演にあたっていたポップス的なムードと、アナログスイッチが持つ有機的なムードを、うまく両どりできたのだ、と解釈してホクホクしている。もう少し正直に言うと、ほっと胸を撫で下ろしている。

自分は別にアナログスイッチのメンバーではないが(もはやメンバーみたいなものではあるけど)今回アナログスイッチがグンっとライジングしそうな雰囲気が芽生え始めたことが心の底から嬉しい。励まされる、というのに近いのかな。元気になる。それはもちろん作品の総合的な力、なんでしょうけど
……いや!「力のある作品」が全く発見されずに埋没していく様子はたーーーくさんみてきた。

つまり、応援してくれる人。…きっとこれを読んでくれている人たちは、みんなそういう人たちだと思います。何かが好きな人。あなたたちがいたから作品は生き生きしたのだと思う。少なくとも今回、『信長の野暮』は埋没しなかった。多分。

これからも、気が向く限りはぜひアナログスイッチに注目してみてください。
で、アナログスイッチに飽きたとしても。あなたが好きなもの・ことを、その時々で、ずーっと愛していてください。できれば。まあ、無理はしなくていいけど。

モノもインフラも満ちて、なのに心が空っぽのまんまで味気ない。好きなもの・ことを愛せる人たちは、現代の魔法使いなのだと思います。日々の暮らしってそうそう変わらない。けど、劇場に入って、出る頃には、なんだか街の景色が変わったようにすら感じる。ふわふわする。ワクワクする。物質的には何も変わってないのに!お金にならないし、栄養にならないし、生殖の役にも立たない。
なのに!愛してしまうもの。そういう愛に、没頭できる人。世界を「ガラッ」と変えることができる唯一の手段。これはもはや、魔法ですよね。

福永も負けないっす。愛着を持つぞ。好きなもの・ことに。
福永は作曲が好き。作詞は…まあまあ、くらい笑
…なんだか変に飛躍したような気もしつつ。これにて結びの句とさせていただこうと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

福永健人(airezias)


おまけ(有料版)

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佐藤慎哉が福永さんにお送りした、『夜明けの歌』制作におけるイメージポエムを掲載いたします。かなり赤裸々なものになりますので、読みたい方だけ自己責任でお楽しみください!

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