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罪悪感を帳消しにたい

寄付について考える と、特別な時にしかしていない事に気がついた。何か、良くないことがあった時に“知らない人”が“可哀想な人”になって、無事な私は“善人”になる。“善人”だから、分け与える。普段は見向きもしない募金箱に小銭を入れて、「私は善人だ。可哀想な人を救った」と救世主気分。そのお金の行き先を私は知らない。募金箱に入れたら、人助け完了。それでおしまい。

ニュースを見て、心を痛めて、財布の中の小銭を募金箱に入れる。それでおしまい。それでいいのだろうか。良くない。良いわけがない。
今起きている事に上書きされて忘れてしまった色々なことはまだ片が付いていなくて、まだまだ支援は必要なのだ。だから、募金箱に小銭を入れて終わりにしてはいけない。なのに、終わりにしてしまう。良かれと思ってやったことがおおきなお世話になってはいけない。あとは専門の人がうまくやってくれるだろうから、下手に手を出さずに任せたほうがいい。素人の私にできることなんてもうない。そうやって終わらせてしまう。まだ終わってないと心の隅で思いながら、日常に戻っていく。

結局、他人事なのだ。私は大丈夫。だから良いや。そう言うことだ。でも、そんな自分を認めたくない。自分本位な、利己的な、私が良ければそれで良いなんて、そんな薄情な人間になりたくない。かと言って、ボランティアなんてしたくない。ぶっちゃけしんどい。
せっかく私は安全なところにいるのだから、この安全な場所から離れたくない。わざわざ危険な場所に行きたくない。うちじゃなくて良かった。家族じゃなくて良かった。友達も無事で良かった。遠くの出来事でよかった。それが本音。だから罪悪感が湧く。私って、とんでもなくひどい人間だな、と嫌になる。だから、募金箱に小銭を入れる。使い道とか、本当にそれが正しく使われるのかとか、詐欺なんじゃないかとか、そんなことは関係ない。安全な場所で平穏無事な日常を送っている事に対する罪悪感から逃れるための“募金”だから、なんだっていいのだ。だから、特別な時にしかしないのだろう。

罪滅ぼし的な募金でも、誰かの役には立つのだろうか。その場限りの救世主ごっこでも良いのだろうか。私は免罪符が欲しいだけなのだけれど……
わからないけれど私には私にできることしかできない。だから、塵も積もれば山となると呪文のように唱えながら、できるだけその場限りにならないように考え続けるしかない。

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鬱との共存を目指しながら詠んだり書いたりしています。