大切なものと向き合えてるのかね私は

母方の実家は真言宗ですが、実家メンバーのうち母とその姉(つまり伯母)は創価学会です。実家から独立して明るく元気に暮らす伯母。その姿に憧れて、母は創価学会に入信したと言います。その後、未入会の父との間に生まれたのが私なのですが、私がお腹の中でぬくぬくしていた頃、真剣に勤行唱題をする母の姿に感化されて父は入信したそうです。

「この子を広宣流布のお役に立つ子に育てます。だから五体満足で産ませて下さい。」その強い祈りの結果生まれたのが私とのこと。

私が2歳か3歳のころと思われますが、母が弟の出産準備に入るということで、私は伯母の家にしばらく預けられました。出産も無事に終わり、私は母の元に帰ることになったのですが、私は伯母から離れるのを拒んだそうです。それくらい、伯母のことが大好きだったんですね。

伯母の家にいる頃の私は、とにかく仏壇の扉を開けろとうるさかったそうです。装飾が比較的豪華な時代の仏壇です。中の扉の奥には緞帳のような幕があり、それが上がって初めて御本尊を拝することができる--そういう構造の仏壇でした。もしかしたら、その仏壇が気になったのかもしれないし、御本尊が気になったのかもしれないし、クソガキのくせに信仰心はいっちょ前だったのかも知れません。

伯母は信仰心だと判断したようです。そのせいかは分かりませんが、私は伯母にずっと可愛がられました。過去には色々な苦労もあったと思いますが、私が知る伯母はいつも優しくて、いつも笑顔でした。まるで何の苦労もなかったかのような。幸せを絵に描いたような人。また、かなり強い信心の持ち主だったようです。あと、料理がめちゃくちゃ美味かった。

18歳の頃、私は創価学会の信仰から離れました。例によって、教義に反発したからですね。反発してしばらくすると、私はある病気になりました。タイミング良くというのかタイミング悪くというのか。病院を転々とするも、「ウチでは治せない」と。母は手当たり次第で色々な病院に行きます。私は動けなくなって入院しているのですが、その間もカルテだかMRIの写真だかを持って、母は大学病院をはじめ片っ端から病院へ相談に行きました。しかし、そこで言われることも「ウチでは治せない」と。

私は痛みで相当苦しみました。体にせよ心にせよ、痛みから開放されたくて死にたいと思ったのは今の所その時だけです。もっと苦しかったのは、その姿を見る母だったと思います。広宣流布云々以前に、我が子の苦しみ続ける姿を見て平気な親というのはいないのでしょう。私には子どもがいませんが、それくらいの想像はできます。親子揃って苦しい、いくら探しても面倒を見てくれる病院がない。そんな時に母は、私の中学の頃の同級生の母親とばったり出くわします。隣の地域の学会員でもある彼女に、母は私の病気について相談したそうです。彼女は看護師で「○○病院なら良いんじゃない?」と、母に助言しました。

母が○○病院に行くと、手術で解決できそうだとの回答を得ました。私はすぐに転院を決めました。そして、転院先の医師に相談したところ、手術で治せると。私は手術を受けるのは初めてで、手術による後遺症も聞くことがありましたから、とにかく不安で不安で。その点も医師に聞きました。医師は「理論上、失敗はないはずのものです」と。また、手術は4時間程度であると。仮に失敗の可能性があるとしても、答えは決まっていました。あまりにも酷い痛みでしたから。私は手術を受けることにし、有り難いことに無事に成功しました。全身麻酔から目覚めた時、あの痛みはなくなっていました。執刀医からすれば「理論上当然」のことなのでしょうが、私にとっては奇跡そのものでした。

私の手術中、伯母は地元の婦人部を集めて唱題会をしてくれたとのことです。他の婦人部員さんはどうか分かりませんが、伯母はぶっ通しで10時間以上の唱題をしてくれたと。術前から術後を通じて、そういうことをしてくれました。

それからしばらくして、別の親戚の法事がありました。法事が終わり、行く先は真言宗の寺院です。墓に眠る親族に、関係者一同がお花やお線香を備えます。全員によるお供えが終わったとき、伯母は口を開きました。「みなさん、故人のために一緒に南無妙法蓮華経を3回唱えてあげましょう」と。他者に対して宗教的な要請をあんなにサラっと爽やかにやってのけた人を、私は他に知りません。何をどう考えても楽しいことであるかのように、何をどう考えても故人のメリットになるかのように。

大声にしろ小声にしろ、皆が一緒に合掌して唱えたことから、謎の納得があったものと推測しています。その場にいた親戚は、それぞれに何らかの宗派の檀家さんだったのでしょうけど。こうして、真言宗のお寺に題目の唱和が響きました。以来、私は心の中で伯母のことを本門弘通の大導師と呼んでいます。それを母に言ったら怒られましたし、伯母も聞いたら怒るでしょうが。富士門流的に、本門弘通の大導師は日興上人と決まっていますからね。でも、私にとっての大導師は伯母なのです。

そんな大好きな伯母は数年前に亡くなりました。具体的なことは伏せますが、生活の中で安らげるひとときのことでした。気持ちの良い感覚のまま、眠るように息を引き取ったらしい。確かに、伯母の顔は幸せな夢をみているような表情でした。もともと綺麗な顔立ちだったけれど、余計に美しいと私は思いました。悲しみと驚きはあったけど、良い大人ですからね。できるだけ冷静に、場が和むように努めていました。親族も割と明るい人が多いので。

それでも、火葬場って悲しいです。棺ごと、大切な人が火葬炉に吸い込まれていく。金属の扉が閉じられ、閂がガチャンと。私は改めて、これは伯母とのお別れなのだと自分に言い聞かせました。もう会えないのだと。この後はお骨をみんなで集めるのだと。心の中で、さようならのお題目。「私にとっての大導師、ありがとうございました。またいつの日か!」と。伯母はきっと、悲しくて湿っぽいムードよりも、朗らかなのが好きだから。それで良かったと思っています。

伯母はお骨の姿となり、親族の前に戻ってきました。皆、静かに合掌しています。厳粛な時間が流れるって、ああいうのを言うのかも知れませんね。私も心を落ち着けて合掌し、お骨となった伯母と対面しました。すると、勝手にポロポロと涙が出てくるのです。私は親族一同の前で泣きに泣きました。成人した男が。大声を上げて。さめざめと泣けないんです。文字通り慟哭です。頭ではダメだと明確に分かっているのに、なんだか涙も声も止まらないのです。私は生まれて初めて人のために涙を流し、その場に崩れ落ちました。支えてくれた従兄弟(真言宗)の胸が、とても暖かったのを覚えています。

何とか落ち着いて泣き止んだのですが、そこで私は考えました。「そんなにも大好きな伯母は、私に何を残したのか?私を可愛がってくれた伯母の期待に応える人生を送っているのか?」と。何せ、私は学会活動もしていないし、信仰という信仰もしていないのだから。「私は大切なものと向き合えているのかな?」このことは、今後もずーっと考えることなのかなと思っています。日蓮聖人や法華経との関わりを捨てる予定が今の所はないので。

人が亡くなるとどうなるのか、どこに行くのか、そんな難しいことを私は知りません。でも、故人がどれだけ立派で尊敬できる人だったのか。残った者がそれを示すことはできます。故人を愛しく思うならば、立派な人だと言いたいならば、それは生き残った私たちが示さねばならないと考えます。だから、何が正しいとか確定も断定もできないけれど、私は私で頑張ろうと思います。

さて、こちらも日付が変わり、本日10月13日は日蓮聖人ご入滅の日です。昨日気づきました。

我々が何をすると、日蓮聖人が立派だったと世に示せるのか?
私なんて在家な上に信仰者というわけでもないけれど、いち日蓮ファンとして、そういうことを考えたいと思います。

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