私に優しい経典の言葉たち
Twitter卒業記念に、現代人に優しいというか、私にとって都合の良い経文を挙げた記事。
特徴の出てるお経を現代語訳で抜粋してみよう。
例えば法華経は全体として平等普遍のようなことを言っているはずだけど、我々にとって耳の痛いことも書いてあったりする。
だけど、今は優しい気持ちになりたいのよぉ〜。だから、それっぽいところを抜粋。
法華経以外の経典の抜粋があります。当然、読んだからって謗法のわけがないから安心して読んでくれよ。
これが謗法なら、数学の教科書とかを読んだ時点でド謗法だから。
抜粋だけだとダメな気がするので、私のしょうもないコメント付きでどうぞ。
経集(スッタニパータ)
仏教学では現存最古とされる経典らしい。五時八教的にも、華厳経の次のタイミングで説かれたことになっているはず。
仏教知識を御書と学会系の書物のみに頼っていた10代で初めて読んだ時、衝撃を受けた。
「あれ、どこだ?どこに勝負が書いてある?これじゃ戦えねぇだろ!俺は戦闘民族学会員だぞ!戦わせろ!」と。
145-147(慈経)
145 智慧ある人たちが批判するようなことは、いかなることも為さないように。安楽がありますように、無事息災でありますように、すべての生けるもの(有情)が、幸せでありますように。
146 およそ生きている者はすべて、動きまわるものでも、動きまわらないものでも、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
147 見たことがあるものも、見たことがないものも、遠くに住むものも、近くに住むものも、すでに生まれたものも、〔今にも〕生まれようとしているものも、すべての生けるものが、幸せでありますように。
これはね。一切衆生の幸福を願う文面だからね。経典の名前に「慈」って書いてあるし。
786-787句(悪い事の八偈経)のお釈迦様
786 浄められた人には、世間のどこにも「さまざまな生存についての分別構想された見解」というのは存在しないのです。まやかしと高慢とを捨てて、かれは何を頼りにして行くのでしょうか。かれは近づくものーーつまり執着ーーがありません。
787 様々な事柄に近づく人は、議論に近づいていきます。近づくことのない人に対して、いったどのようにして議論を起こせるのでしょうか。得たものも捨てたものもーーつまり自己ということも自己のないこともーーかれにはないからです。かれは、この世の中で、あらゆる見解をぬぐい去りました。
これ読むと心が落ち着かない?
何というか、心のムラムラみたいなのがジュンジュワ~って溶けていく感じ。
796-803句(最高のことの八偈経)のお釈迦様
上記の展開みたいな感じ。長いけど全部記載する。
796 様々な見解に住みついていて、『世間において人が「より上である」とするもの』を『最高だ』としている人は、その他のもの全てを『劣っている』と言います。そのために、かれは様々な論争を超えることがありません。
797 見たもの、聞いたもの、戒律や道徳・行法、あるいは考えたことにおいて、自己の内に利益を見る人は、そこでその戒律や道徳・行法にのみ執着して、他の全てを劣っていると見なしています。
798 『人が、あるものを拠り所として他を劣っていると見なすならば、それもまた束縛である。』と善き人々は語ります。ですから、比丘は見たこと、聞いたこと、考えたこと、また、戒律や道徳・行法に依存しないようにしましょう。
799 知識によるとしても、あるいは戒律や道徳・行法によるとしても、世の中において見解を構想してはなりません。自己を他と「等しい」と見なしてはなりません。あるいは「劣っている」とも「勝れている」とも考えてはなりません。
800 得たものーーつまり自己ーーを捨てて、執着していない人は、知識についても拠り所とすることがありません。様々な異論のある中で、党派に与することはありません。かれは、いかなる見解にも頼ることがありません。
801 この世で両極端において願うことなく、様々な生存に対してこの世もかの世も願うことのない人には、あらゆる事柄について決定を下して執着するような、どのような住まいもありません。
802 この世において見たこと、聞いたこと、考えたことにおいて、どんなわずかな想も分別されることはありません。見解に執着していないそのバラモンーーすなわち修行の完成者ーーに、この世でいったいどうやって分別を起こさせることができるでしょうか。
803 かれらは、分別をなすことがなく、何か一つの見解を重んずるということもありません。また、かれらは、いかなる教義も受け入れるということがありません。バラモンは、戒律や道徳・行法によって導かれることもないでしょう。このような人は、彼岸に達して、もはや戻ってくることはありません。
最高のことの八偈経を終わる。
一部の日蓮系の方からすると違和感あるかもしれないけど、後で挙げる法華経の安楽行品とは親和性があると思う。どうかな。
863のお釈迦様
863「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。」
868「怒りと虚言と疑惑、これらのことがらも、快と不快の二つがあるときに現れる。」
870「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。」
十二縁起説の原型みたいな。
「闘争と争論と…と悪口は、何が原因ですか?」という問いに対する回答の中で出てくる数節。心が落ち着くわ〜。
ね、これ読んで謗法とか思う?
「テレビの電源を入れたら何かが映る」って、これが謗法の言葉なわけないでしょ?
阿含経典
十二縁起が完備された表現になっているので、上記のスッタニパータよりも後に整備された経典のように見える人もいるかも。
だけど、上座部系(というか信仰者)の方々は当然のことながらお釈迦様の直説として受け入れているとのこと。
個人的には、私が安らぎを得られるかどうかの方が大事なので、誰が書いたとしても構わない。
有縁 (南伝 相応部経典)のお釈迦様
「比丘たちよ、そのように、
無明を条件として行がある。
行を条件として識ががある。
識を条件として名色がある。
名色を条件として六処がある。
六処を条件として触がある。
触を条件として受がある。
愛を条件として取がある。
取を条件として生がある。
生を条件として苦がある。」
(以下、苦を条件として信がある。信を条件として悦がある。悦を条件として喜がある。喜を条件として軽安がある。軽安を条件として楽がある。楽を条件として三昧がある。三昧を条件として如実知見がある。如実知見によって厭離がある。厭離によって離貪がある。離貪によって解脱がある。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。…と続く)
私にとってはめちゃくちゃ優しい言葉だけど、用語が分からんとサッパリ分からんのは現代人に優しくないかも。そこは、Wikipediaでも読んで覚えるしかない!
そんなわけで、心が安らぐね!
でも、そろそろ読んでいる人はきっと眠くなっているに違いない。
でもね、貴方が眠いということは、私はタイピングする指が動かないってことなんですよ。
他にも掲載したい経典はあるんだよ。もっと慈悲っぽい言葉とか。
でも、キリがないし打つのが疲れたし、貴方も眠いだろうからね。
そろそろ法華経に参ろうぞ!
法華経(妙法蓮華経)
序品(第1章)の日月燈明仏
「わたしが入滅しても、憂い怖れることなくありなさい。菩薩の道は幸いの母胎である。全き法において必ず無上のさとりに至り、仏陀の浄身を得るであろう」
日月燈明仏はずっと昔の仏様。「私がいなくなっても、みんな仏になれるぞ」と。優しい。
序品は、色々な関係者が集まる壮大な様子や有名な釈尊ビームの強烈な描写も好きなのだけど。優しさをテーマにするとここだね。
方便品(第2章)の釈尊
「シャーリプトラよ。わたしはあなたがたに、いろいろなことを説いてきました。一人ひとりの性格と境遇に応じて、心が迷いと苦しみから解放されるように導いてきたのです。」
「仏の言葉を一心に受持しなさい。諸仏の言葉に虚妄はありません。種々の教えがあるように見えても、ただ一仏乗のみがあるのです」
「わたしは、出家修行して苦悩を滅する涅槃の道を示しましたが、真実においては諸法はもとより寂滅の相にあること、すなわち、さとりはここにあることを知りなさい。」
「未来の諸仏が百千億もの異なる教えを説いたとしても、すべては一乗の道に通じています。法は常に変わらずにあり、人々の心には、やがて仏となるべき種があります。その種が縁に触れて成長することを諸仏は知るゆえに、諸仏は一乗の仏道を説き示すのです。この法は法位に住して世間の相もまた常住です。すなわち、法は法のごとく空にして変わらず、世間のありさまもまた、常に法ととともにあります。」
「過去・現在・未来の三世の諸仏の説法の儀式のごとく、わたしもまた無分別の法を説きます。シャーリプトラよ。あなたは知らねばなりません。仏の言葉を聞いて心に喜びをもち、一言の祈りでもささげるならば、それは三世の諸仏の一切に及びます。そして、みずから作仏(仏になること)できるのです。疑惑を去り、その喜びにおいて仏をめざしなさい。」
この章は後半の如来寿量品(第16章)辺りの伏線というか、対になってるようにも見える。
それと、万教帰一とまでは言わないけど「全仏説帰一」っぽい概念(一仏乗)が説かれてるので取り上げさせて頂きました。
譬喩品(第3章)の世尊
「仏というものは、世界が朽ち古びた炎の家であるかのような時に現れます。なぜなら、人々は生老病死の憂いと悲哀のなかにありながら、心は暗く閉ざされていて、貪・瞋・癡の三毒の炎に焼かれています。仏はそのような人々を苦悩の炎から救いだし、無上のさとりを得させたいと望むのです。」
ここはね、仮に「法華経を編纂(創作)したグループがいた」とした場合、その人達が後世の我々に対して「苦しい時こそ仏様に会えるんだぞ!大丈夫だ!」と言ってる気がするのよ。その情熱が嬉しいから取り上げた。
もちろん、仏様の直説であっても有り難いです。優しい。
薬草喩品(第5章)の世尊
「如来の言葉は雨が地に等しく降り、同じ味であるように一相一味です。あるときは解脱を説き、あるときは出離(迷いを離れること)を説き、あるときは滅(煩悩を滅ぼすこと)を説いて種々に異なるように見えても、究極においては一切種智(根源の智慧)に至ります。」
「仏は、雨が枯稿(枯れ草)を潤すように人々を苦から離れさせ、安穏の楽と世間の楽と涅槃の楽を得させます。仏の言葉は甘露の法を清らかに明らめ、一味の響きをもって種々に語り示します。わたしは、一切の者をあまねく平等に観て、かれは善いけれど、かれは善くないというような思いをおこすことはありません。わたしは誰か一人にするように、すべての人に言葉をかけます。
人の身分の上下に関わりはありません。戒をよく持つ人も、そうではない人も、修行がよく進んだ人も、そうではない人も、まなざしが正しい人も、そうではない人も、勝れた人も劣った人も、雨がすべてを潤すように、わたしに差別はありません。しかも懈倦なく法雨を注ぐのです。」
法華経は比喩をよく用いていることでも有名だけど、個人的にはこの比喩が一番好きかも知れない。
例えば化城の喩えもSF感あって好きなのだけど、物凄くスポ根って感じがして。そういうのはね、ご出家の方々に頑張って頂いてですね。
私なんて所詮は在家のペーペーですからね。この薬草の喩えのように癒やされたいのよ。
化城喩品(第7章)
大通智勝如来は十方の諸梵天の王と十六人の王子の願いを容れて、聖なる四つの真理(四諦)の法輪を転じました。
苦諦については、「一切は苦である」と語りました。
集諦については、「苦は煩悩に執着するところに生じる」と語りました。
滅諦については、「苦は滅することができる」と語りました。
道諦については、「苦を滅する修行の道がある」と語りました。
(大通智勝如来のことば)
「無明は行の縁である。
行は識の縁である。
識は名色の縁である。
名色は六入の縁である。
六入は触の縁である。
触は受の縁である。
受は愛の縁である。
愛は取の縁である。
取は有の縁である。
有は生の縁である。
生は老死・憂悲・苦悩の縁である。
無明が滅すれば行は滅する。
行が滅すれば識は滅する。
順次に滅して、ついに生が滅すれば老死・憂悲・苦悩は滅するのである。」
大通智勝如来は釈迦如来の親かつ師匠。
物凄く昔の、しかもたぶん地球外の話しだけど、四諦と十二因縁が説かれていたという衝撃。
地球の経典とほとんど差がないように見える。どんな言語で語られたのかは知らん。仏語?
法師品(第10章)の世尊
「男であれ女であれ、わたしの滅後に、たとえ密かにであれ、たった一人に対してであれ、法華経の一句でも説く人があるならば、菩薩よ、まさに知るべきです。その人は如来の使いであり、如来の事(みわざ)を行じる者である、と。」
「一句でも良い」とのこと。もう一度書きますね。「一句でも良い」
…私は非常に都合の良い言質を得た。
「わたしはあなたがたに告げます。わたしは多くの教えを説いてきましたが、そのなかで法華経が第一である、と。」
これね、「(この経が)最第一」で調べた限りでは他経典の記載を確認できなかったんだよね。他にもあるのかな?
少なくとも、法華経が好きな人や信じている人にとっては優しい。
「わたしの滅後に、出家と在家を問わず人々のために法華経を説き広めようと願うとき、どのようにすればいいのであろうか。
その人は、如来の室に入り、如来の衣を身につけ、如来の座に坐して、人々に法華経を説かなければなりません。
如来の室とは、人々を哀れむ心、すなわち大いなる慈悲の心です。
如来の衣とは、どんなことも耐え忍んで常に心やわらかであること、すなわち柔和忍辱の心です。
如来の座とは、すべては空であること、すなわち、どんなものも互いに関わりあいながら常に変化しているという万物の真理です。
如来の室と衣と座において心ゆるがず、人々のために法華経を説き伝えなさい。
もし法華経を説いて人々からののしられ、刀で切りつけられ、杖で打たれ、瓦や石を投げつけられても、仏を念じて耐え忍びなさい。
千万億の世界において、わたしの身体は堅固であり、無量の劫の長きにおいて、わたしは人々のために法を説きつづけます。」
仏様の滅後、どんな心持ちでいるべきかについて。
特に日蓮系の人に見られる、ある種の正義感は分かる。分かるよ。私もそうだったし、今もそういう所が残ってるはず。
だけど、仏様がずーっと物凄く頑張ってくれてるんだから。
「仏様、どんだけ長いこと頑張ってんの」って話しだから。無量の劫よ?その間もずっと柔和って。
それに比べたら我々なんて一瞬の一瞬だからね。そんな短い期間くらいは、できるだけ柔和で過ごしたい。
見宝塔品(第11章)
多宝如来は身体を動かし、宝塔の中の座の半分をあけて世尊に呼びかけました。
「釈迦牟尼世尊よ。どうぞ、この座におつきください」
こうして人々は、宝塔の獅子座に二人の如来が並んで結跏趺坐した姿を仰ぐことができたのです。けれど、あまりの高みにあり、人々から遠いところでございました。
「世尊に申し上げます。如来の神通力をもって、わたくしどもをお近くにまいらせてください」
世尊はその願いを容れて人々を間近の空中に引き上げ、大空の高みに置きました。
多宝如来が釈迦如来に優しくして、釈迦如来がみんなに優しくしてる感じが微笑ましいワンシーン。ワンシーンっていうか、かなり大事な場面だけど。
個人的に、多宝如来がどういう風に動いたのかが気になる。スーッと横に移動したのか、ヨイショという感じだったのか。
※法華経が初見の人はワケがわからないと思うけど、この章からしばらくは空中の特殊空間のできごとなので、人々が浮きます。人が浮くどころじゃなくてっていうのもあるんだけど。詳しくは法華経を読んでください。
提婆達多品(第12章)の世尊
「提婆達多は、私の良き友(善知識)です。わたしは提婆達多に導かれて六波羅蜜を身につけ、慈しみと哀れみと祝福と施しの慈悲喜捨において全き者となりました。」
何かに似てるなと思ったんだけど、ベジータが仲間になった時の感じ。最近なら、悟空とフリーザの共闘みたいな。
あれだけ酷いことをした提婆達多をこのように表現する凄みよ。
提婆達多品(第12章)の文殊菩薩
「娑竭羅龍王の娘は、年は八歳ですが…その心はやわらかく高雅であり、無上のさとりに達しました」
龍女(子どもかつ女性かつ動物)が成仏した話。
現代的には「そんなもん、性差別しないのが当然」となるけど、それは人類がそういう風に頑張ってきた今だから言えることであって。法華経編纂の時代背景を考えると物凄く勇気のあることだと思う。
もし私が編纂チームにいたら、この箇所は怖くて黒塗りしたかもしれない。私はヘタレだからね。命が惜しいもん。
安楽行品(第14章)の世尊
「わたしの滅後、末法の世に法華経を説こうと願うならば、安らかさにおいて語りなさい。好んで人や他の経典の欠点を語ってはなりません。」
これって、末法が対象だったんだね。正法か像法かと思ってたわ。末法ですよ。末法って、今ですよ。安らかに行こう、安らかに。
「いたずらに議論して論の優劣を競うようなことがあってはなりません。
仏の弟子であれば、法を説くとき、常に柔和にして、よく忍び、すべてを慈しみ、心ゆるむことなくありなさい。」
ソフト、とにかくソフトに。自分の心はピシッとさせて、他者にはソフトでありなさいですって。
…と、ここまでが前半の迹門部分。後半の本門を書く力が残ってねぇ。
誰か、この記事を補強して完成しませんか?他の経典も取り上げたいし。
癒やし系の経文を集めて、それを読んで優しい気持ちになりたい。Chara。
引用元(一部改変あり):
・スッタニパータ→中村元「ブッダのことば」、石飛道子「『スッタニパータ』と大乗への道」
・阿含経典→増谷文雄「阿含経典1 」
・法華経→大角修「全品現代語訳 法華経」
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