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仏罰-Butsubachi-

ほんとね、一部の人がね。バグったBotのように仏罰仏罰うっせーから書いてやる。

内容の正確性について問題あれば私も勉強したいので、お気軽に私のサークルまで連絡ください(noteへのログインが必要かも)。
引用文については適宜改行・記号等を改めています。

いざ行かん、めくるめくButsubachiワールドへ!

仏罰、ダサい

何にせよ、一部の日蓮系信者(一部と思いたい)がうるさいんですよ。事あるごとに「仏罰が当たるぞ」と。ご存知の方もおられるでしょうし、それで面倒くさい思いをしてる方もおられるでしょう。

本当にね、仏罰を主張し過ぎるのはダサすぎるからやめようぜ。今すぐやめよう。
私がここでダサいという言葉を使うのもダサいけど、それより遥かにダサい。
仏罰ワードでマウント取ろうとするダサさもあるけど、もっとダサい。

どうダサいのかと言うと、「私は隠れ国賊です」と恥ずかしげもなく繰り返すくらいダサい。だからやめよう。

日蓮聖人は仏罰と言ったのか?

仏罰という用語が日蓮遺文でどう扱われているのか。これについては他の方もTwitter等で確認してくださっています(※)。残存する文献での用例は1件のみです。
(※該当する方、リンク貼りたいのでOKなら連絡ください。)

その1例というのは、
・「獅子王御書」…日蓮聖人御遺文検索(≒日蓮宗昭和定本)
・「閻浮提中御書」…日蓮大聖人御書全集(=創価学会版全集=旧版大石寺全集)
のことです。名称の違いだけで、同じ文書を指します。いずれの全集に当たってもその1件しかないということは、今後も新たな発見がない限りは1件だということでしょう。

実際はどのように仏罰という語が用いられているのか?引用します。

【獅子王御書】
閻浮提中飢餓《 》示現閻浮提中《 》又云く_又示現閻浮提中《 》劫起等云云。
人王三十代《 》国の聖明王《 》国にわたす。王不用此して三代仏罰にあたるべし。
釈迦仏を申し隠すとが《 》念仏者等善光寺の阿弥陀仏云云。…
【閻浮提中御書】
閻浮提中飢餓□□□□示現閻浮提中□□□□、又云く又示現閻浮提中□□□劫起等云云、
人王三十代□□国の聖明王□□□□□国にわたす王此れを用いずして三代仏罰にあたる□□□、
釈迦仏を申し隠すとが□□念仏者等・善光寺の阿弥陀仏云云、…

「仏罰」の用例が当該文書の1件のみであり、しかも文字判読のできない箇所があります。
前後が切れているので、これが日蓮聖人ご自身の言葉なのか、引用なのかも判然としません。
これのみで仏罰の定義をするのは困難でしょう。

たった1例しかないそんな言葉を得意げに語るのはダサダサで香ばしいことだよと。
私なら恥ずかしくて顔が真っ赤になって枕に顔を押し付けてアーーーー!って叫びたくなる事案です。

次に、仏典にたずねてみましょう。

釈尊は仏罰と言ったのか?

こっちがまた問題で。SAT大蔵経を検索しました。結果、以下の通りです。

・経律論のうち経には1件も出てこない
・律と論書には計4件がヒットするが、「仏罰」という名詞としては使われていない

これも4例、全て掲載します。
まず、五分律から2件。

【五分律卷第八彌沙塞 (佛陀什, 竺道生)】
釋種聞佛從彼國來共立制若不出迎佛罰金錢五百便各將大小出迎世尊頭面

【五分律卷第二十二彌沙塞 (佛陀什, 竺道生)】
我非敬佛故來但親族共要若不出迎佛罰金錢五百是以來耳阿難聞已爲之悵

これはいずれも「を出迎えない場合は、として金銭500を…」という意味です。仏と罰の間で文節が切れています。
仏罰Loversの皆様が仰るところの仏罰とは意味が全く異なります。

残るは四分律の論書2件。1件目は以下。

【四分律刪繁補闕行事鈔卷下一 (道宣)】
 得施法以前安居移至他方不得衣分佛罰諸住人還使通分僧祇云若安居時衣

これは「仏は罰した」なので先の2件よりは仏罰感があるけど、これを根拠に仏罰ワードを使うのはどうなのよ。


【四分律行事鈔資持記下一 (元照)】
 因舊住時中不分意令客去人少物多佛罰之者以非時人多得物反少故知此施

で、これは微妙で、日本語の感覚的には「仏罰の者」と訳したくなるかもしれない。私は「仏は罰した」と訳すべきと思うけど。

ただ、問題はそこじゃない

あ、あんた…あんた一体…

上記2例、論書を書いたのは道宣さんと元照さんです。このお二人、律宗の先生です。
そもそも四分だもんね。
以上を踏まえ、まとめに入ります。

仏罰という単語は、釈尊の言葉としては残っていません。
辛うじて残っている仏罰という言葉は2件。これも名詞としての仏罰なのか、かなり怪しい。
仮に「仏罰」という用語だっとしましょう。それでも、書いたのは律宗のお坊さんですよ

日蓮門下にとって重要なのは、法華経と御書だろうと思っています。合ってますよね?
そこにないものを経律論に当たるのはセーフと思います。これも合ってますよね?
しかし、優先されるのは法華経と御書です。その前提で申し上げます。

日蓮を大聖人と仰ぐそぶりを見せながら、律宗僧侶のマネをして、歓喜しながら仏罰を叫ぶ…。あんた、いったいどこの組の者だ?国賊の香りがするぞ。

もちろんここでは、律宗の良し悪しじゃなくて、律国賊とか言ってる人が何やってんだという話をしたい。

文底秘沈Loversの皆様へ

「一念三千の用語だって法華経に書いてないだろう。文底秘沈だ。仏罰も同じだ。」そう言いたいですか?
この言い方が好きな人もチラホラ見かけますね。その人にとって、だいぶ危険だと思いますけど。

文底秘沈的な主張をするなら以下に答えてからにしてください。

①文底から義を取り出す権能は誰にありますか?貴方にそんな権能あるんですか?もしかして貴方、御本仏なのですか?

②文底読みをすべき対象範囲はどこですか?大蔵経ですか?法華経ですか?御書ですか?何の義を取り出すために文底読みをするのですか?

③仏罰を文底に秘沈した釈尊って、何なのですか?

以上、書きたいことは概ね書けました。私はいま、万感の想いを胸に仏罰Loversの皆様に伝えたい…

仏罰やめますか、それとも佛罰やめますか?

終わりに

と、勢いでバーっと書いたけど、各門流で仏罰という用語をどのような根拠でどのように定義しているのか、私は知りません。
「御書と大蔵経によるとこのようになりますね」という意図の記事です。各門流的に何らかの根拠づけがあれば教えてください。

最後に、気に入ったのでもう一度書かせてください。

仏罰やめますか、それとも佛罰やめますか?

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