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『水辺のビッカと月の庭』 第1話

〔あらすじ〕

洪水後の親水公園に生き残ったカエルのビッカと流されてきたイモリのムンカはヒロムという少年を助けて送り返そうとします。ヒロムは揺らすことができればどこへでも行けるというブランコに挑んで失敗し落とされたというのです。親水公園にのぼる青白い月の明かりに照らされた三人は、命の不十分な幽けき世界にまぎれこみます。自分の世界に戻ったとおもったヒロムは、公園のブランコの管理者であるキルカに攫われてしまいます。ビッカとムンカは手がかりを求めて行き先をさがしますが、わかったことはヒロムの落ちたブランコが水の館の月の庭にあるということでした。そこに行けば会えるかもしれないと二人はめざします。




親水公園の住人

 殊に雨が多く、一ヶ月に三十五日雨が降ると言われる小さな国のかたすみに、親水公園と命名された公園がありました。茅や葦の広がる湿原に木道が作られ、かつては憩いの時間を人々にもたらしていたのです
 水辺の柳の木の叉で目を覚ましたのは一匹のアマガエルです。まず伸びを二、三度してからだをほぐします。これから親水公園の散歩にでかけます。日課にしてからずいぶん日時が経ちました。もう辞めてもいいかなと思わないでもありません。しかし、起きて水面の香りを嗅ぐと、「さて今日も行くか」と言葉が出てしまいます。
 生まれたのも育ったのも親水公園ですが、昔の面影は無くなっています。大洪水に見舞われたせいで一変しました。土砂で埋まった所もあれば激しい流れで新たに水が溜まった箇所もあります。木道も流されたり埋もれたりしたままで復旧は忘れ去られた状況です。
 土砂に埋もれてしまった水辺の小道は草に覆われてしまっています。その葉の上をのそりのっそりと歩んでいきます。時には葉っぱから葉っぱへと飛びうつります。ぴょんーぴょ、ぴょんーぴょ。たまにはぴょんーぴょ、ぐらりと落ちることもあります。
こうして広い沼地の周囲を少しずつ巡って回ります。
 「はい! おはようビッカ」
顔見知りのカエルたちが声をかけてきます。洪水の後でこの親水公園に腰を落ち着けたものたちです。彼等は、古参の彼を「ビッカ」と呼びます。この呼び名をとてもカエルらしい名前だと気に入っています。
上機嫌で「はい! みんなおはよう」と挨拶を返します。
 生まれ落ちた卵のときはいたずら少年たちの手で水から道端に放り投げられる目に遭います。オタマジャクシのときには水鳥の餌食です。大きくなれば百舌鳥に狙われ枝に串刺しにされる目に遭うこともあります。毎日の挨拶は日々を平穏におくる幸せを噛みしめる合言葉です。
 散歩に疲れると、苔のむした枯れ木の上でひと休み。晩春の風が水面のうえを渡ってきます。心地よくてうつらうつらしていると、カエルたちが寄り集まってきます。ぷかぷかと沼に浮かんでいる若いカエルたち。彼らの中に親水公園の後輩はいません。ビッカの同胞はあの洪水で流されてしまいました。ひとりとして残っていないのです。今泳いでいるカエルたちは、他所から流されてきてここで新しく命をつないだ新しいものたちです。彼らは散歩しているとビッカに声をかけます。若いから好奇心を剥きだしです。
「ビッカのオヤジさん、散歩って楽しいの」
「ビッカさんは何カエル?」
「ビッカのオジさん、変わった色してるね」
オタマジャクシを卒業したばかりだから思っていることをすぐ口にだしてしまいます。中には近くに上がってきて好奇の目でジロジロみるものもいる有様です。
 そんなに変わってしまったのかとビッカは自分でも呆れます。雨蛙なのに体の色は黄土色に変わってしまいました。これでは「ぼくは雨蛙である」とは言いにくいことかぎりなしです。保護色のたぐいではありません。ですから元の雨蛙の色には戻れないのでした。
 どうせ変わるのなら別の色が良い。こんな色では目立ってしまう。鳥や蛇に狙われやすい。もし、うまそうにふっくらしていたらと思うとそら恐ろしい。気楽に散歩などもできやしない。ビッカはいろいろと考えてしまいます。
 若い蛙たちは見飽きたらまた水の中にポッチャンと飛び込みサヨナラします。理由なんか考えもしないでしょう。だから彼らに説明はしません。仏頂面で「歳をとったからだよ」と答えてビッカも腰を上げます。
 「さあ、君たちは練習練習。しっかり泳ぐんだ」
水に浮かんだ若い彼らに声をかけます。ビッカは人一倍まさった体力で濁流に飲まれなかったわけではありません。偶然に危機を免れただけでした。
 オタマジャクシのときと比べたら泳ぎの巧みさは及びません。若い頃はしっかりとからだを鍛えておく方が良いのです。どこまでも泳ぎ続け、いつまでも浮かんでおく力は必要です。いつなんどき体力だけが頼りになる厳しい局面が来ないとも限りません。ビッカは説教くさいことをつい口にしてしまいます。
「ありがとうビッカのオジさん」
それでもにこやかに彼らは答えてくれます。でもどれだけわかっているかおぼつかないところがあります。その場に直面したときでは遅すぎます。
 年寄りくさいことを説きながらピョンピョンのそりと歩いていきます。一日分の散歩が終わると必ず木によじ登ります。登りやすい低い木は水辺に多く親水公園でも同じです。ビッカのお気に入りはカワヤナギの木です。ノソノソと上って木のまたに座ってくつろぎます。水面を吹いてくる暖かい風にまどろみ始めます。夜が忍びよってきて辺りを照らすのは青白くひかる月の光です。田野にあがる同胞の鳴き声を聞きながら眠りに落ちて次の朝を迎えます。

湧き水のムンカ

 「おはよ、ビッカ。ムンカだよ。下りておいでよ」
甲高い声で名前を呼ばれました。枝の上から下を見るとイモリが見上げています。
「ちょっと久しぶりビッカ」
イモリの知りあいは一人しかいません。やや甲高い声で変わったもの言いをしまs。
「元気だった? ムンカ」
ビッカも声をかけます。ムンカは尻尾を元気よく二度振ってこたえました。振り方で尻尾の傷は治っているよといっています。足はどうだろうか気になります。この前会ったときにはまだ完治していなくて辛そうにしていました。
「そろそろ時間だね、つきあうよ」
ムンカと並んでの散歩は久しぶりです。ムンカにあわせて歩幅を狭めノッソリノッソリ歩いてゆきます。
「足の怪我はすっかり治ったんだね」
ムンカは洪水に流されて体のあちらこちらに傷を負っていました。
「前よりずっと元気だよ」
また尾っぽふりながら答えます。ビッカはいつものなじんだコースをゆっくりと歩いていきます。
 「ビッカ、少し回り道をしてもいい」
ムンカはビッカを見上げて言いました。
「実はちょっと頼みがあるんだ」
ムンカは先に立って散歩道をはずれます。
「どこへ行くの」
「この先にドールハウスがあるんだ。今も時々行ってみるんだ。覚えてるよね」
洪水が起きると上流からいろいろなものが流れてきます。ほとんどがゴミ同然のものです。ドールハウスはムンカにとって命の筏でした。
 大水が押し寄せてきた年のことです。三日三晩降り続いた土砂降りの雨は一度ではすみませんでした。長梅雨の止まない雨に集中豪雨と降水量は増え続けました。川は濁り水かさは増え続けました。かつて見ないほどに氾濫した川の濁流はついに堤防を乗り越え、数キロにわたって流し去ってしまいました。このような災害が一度では済まず第二波第三波と続いたのでした。低地の村に及んだ洪水は住めなくなるほど被害を起こしてしまいました。川の流れは変わり激流で運ばれた土砂は自然堤防のように盛り上がりました。また激流は元あった沼地を底から運び去ってしまい広い湖のような地形を残しました。ビッカの住んでいた親水公園にも濁流は押しよせてきました。木道は至る所で壊され水辺の道は土砂で埋もれたままになりました。
 イモリのムンカの住処は被害の大きい地域の上流にありました。濁流は住処であった沼や用水路、水田にも押し寄せていきました。軽いムンカは非力でしたが流れていく木切れや空き缶などを利用しました。最後にしがみついたのがドールハウスでした。
 「今日ね、相談事があって会いに来たんだ」
ムンカは歩きながら話をします。
「困りごとなの」
「いや、でもどうして良いかわからない」
「なら困りごとだ」
「でも自分のことじゃないんだ」
「他人のことの心配なんかしてどうしたの」
「それがね、ヒト助けなんだ」
「なんだって」
「ビッカがぼくを助てくれたようにぼくも助たんだ」
 ムンカを助けたというのは大袈裟なもの言いかもしれません。流されていたところをビッカが自分のいた木の股に引き上げたのが実際の話でした。ドールハウスが少しの間だけ木に引っかかりました。そのとき屋根にくっつくようにしがみついていたムンカと目があったのです。
「あのまま流されていたら友達にはなれなかったね」
今もってムンカはビッカに感謝の言葉を忘れません。
「それで今日は僕が助けた子に会ってもらいたいんんだ」
「いいけど、今どこにいるの、その子は」
「ドールハウスに匿っている」
「匿うって、なんだか普通じゃないみたいだ」
「そうなんだ。ぼくじゃわからない」
 「ずいぶん色褪せてくたびれてしまったな」
久しぶりに見たビッカが感想を言いました。夏の日差しや冬の寒風にさらされすっかり廃屋の雰囲気でした。
「傷んでもまだ雨風は防げるよ。内部はもっとましだよ」
「よくこれにしがみついてきたもんだ」
「必死だったからね」
 川の流路から外れて氾濫した洪水は昼も夜もなくあたりを薙ぎ倒していきました。ムンカは夜の暗闇の中で濁流に流され親水公園まで流れてきました。一方ビッカは草の葉の下で眠るのが習慣でしたが、増水し始めた日はよじ登った川ヤナギの木の股で眠って難を逃れました。地上でいつものようにひっそりと眠っていた同胞たちはあれ以来姿を見ていません。どこかに流されてしまったのでしょう。残ったのは濁流の置き土産の木切れやビニールで荒れ果てた親水公園でした。
 ムンカがまずドールハウスの壊れた入口から中を覗きました。
「あの子なんだ」
ムンカのさすあの子は男の子でした。

親水公園の訪問者

 その子は膝をかかえてうずくまっていました。
「どう、怯えているでしょ」
ムンカは尾を振って部屋の片隅をさします。その子は抱えた膝の上に顎を乗せてうずくまっていました。ビッカが尋ねます。
「元気がなさそうだ。いつ見つけたの」
「夜が三つ過ぎたよ」
「事情は尋ねたの」
「いいや。一言も喋らないんだ」
「唖なのか」
「どうだろう」
「耳は聞こえてるよね」
「おそらく」
「見えてないってことはないよね」
「どうだろう。見てよあの目」
その子は何も見てないような虚な目をしていました。
じっと見ていたビッカが言いました。
「身じろぎもしないね」
「そうなんだ。初め見たときとおなじ格好でうずくまったままなんだ」
「眠っているのと変わらないね」
「だから起こして欲しいんだ」
「相談ごとってそれ?」
ムンカは尾を横にふります。それが答えでした。
「起きろって引っ叩けばいいじゃない。尾でいいからさ。バシッと」
「ビッカ、間違えてるよ。この尾っぽの威力は強いんだ。小さなからだが吹っ飛んじゃうよ」
「確かに怪我をさせちゃまずい」
「ちょっと驚かせて欲しいんだよ。ビッカを見れば驚いて目が覚めると思うんだよね」
ムンカの意図を察したビッカはムンカを睨みつけます。
「そ、その目であの子と視線が合うとビックリして目を覚ますよ、きっと」
ビッカはただムスッとしています。
「ごめん。気を悪くした?」
 洪水がすっかりひいて、初めてこのドールハウスにやってきたときのことです。ビッカの散歩につきあっていたムンカが立ち寄ってみようよと言いだしました。ビッカは気が乗りませんでした。濁流に流されて泥まみれなったドールハウスなんてどこが良いのやらと口を尖らせます。
きっとあばら屋か幽霊屋敷さながらだろう。でもムンカはしつこく誘いました。面白いものがあるから見に行ってみよう。自分が乗って流されて来たドールハウスを見つけたと言います。行ってみると屋根にかぶっていた泥はすっかり落ちていました。あれから降った雨が洗い流したようです。外壁は陽にさらされて色あせていたがどうしてまだまだ住めそうです。それに加えて内部はムンカが手を入れをしたようです。
 中に入るとすでに先客がいました。ひどく人相の悪い奴がこっちを睨んでいる。真っ赤な目をしている。凶悪犯みたいだ。逃げなくちゃ。ビッカは反射的にピョンと後ろに飛びのく。すると奴も後ろのほうに遠ざかる。近づくと向こうも近づいてくる。頭をかしげると同じようにかしげる。
 様子を見ていたムンカは笑い転げている。ビッカは鏡に映った自分の姿を見ていたのです。ビッカの目玉がちぢんで小さくなる。
「言いにくくてさ」
 不愉快そうな表情をしているビッカを見て、ムンカは申し訳なさそうに言いました。
「自分の皮膚の色が変わったのは見ればわかるけど、目の色はわかんないからね。説明するより自分の目で見た方が納得できるよね」
洪水の夜が明けるとビッカの目は充血した赤い目になっていました。肌が黄土色になっただけではなかったのです。それをドールハウスの鏡で知ることになリました。若いカエルたちがまじまじと見ていたのは肌の色だけではなかったのです。ビッカには言葉で説明するより効果があリました。
 「それで、自分がびっくりしたようにあの子もびっくりするはずと思ったわけだ」
ムンカはぴこぴこと尾をふって答えます。
「目と目の闘いだね。虚な目と赤い目の」
ビッカは、はしゃぐムンカが悪ふざけをしているようにしか見えません。ムンカの思い通りでは癪にさわります。起こすためにその子に近寄るのは止しにしました。もちろん視線は合わせません。頭を上げて視線は天井に向けます。そして肺にたっぷり息を吸いこみました。
「おい少年」
ビッカは離れたまま大声で怒鳴りつけました。横目でちらりと様子を見ます。その子はピクリと動きました。もう一度ビッカは怒鳴りました。
「おい少年」
少し間が空きます。
「僕のこと?」
「お、口を開いたぞ」
「聞こえてるよ」
ムンカも思わず声を上げます。
「良かったな、ムンカ」
「良かった。良かった。ありがとうビッカ」
ムンカはひらひらと尾っぽをゆらして応えました。
「じゃぼくはこれで。あとはまかせたよ」
尾の揺れがぴたりと止まリました。
「これで手を引くの。ビッカ、でもそれって冷たくない」
「起こして欲しいと言ったから、起こした。もう起きてるよあの子は」
ビッカはそっけなく言いました。
「気にならないの」
ムンカは尾で床を叩く。イライラしているときのしぐさです。
「助けたのはきみだから最後までどうぞ」
ビッカは突きはなした言い方をしました。少し意地悪してみたくなったのです。しかし、この少年の様子を見たときから果たして関わっていいのか迷いが生まれていました。
 ムンカはこれくらいのことでは諦めません。ビッカのぶっきらぼうな言い方はいつものことです。少しくらい素っ気ないもの言いのときの方が本心を隠しているものです。
きっとあの子に興味があるに違いない。ビッカは気持ちと逆の態度をとることが多い。ビッカとの付き合いの中で気がついたことです。
 「でもビッカ、ぼくを助けたのは君だから、最後までぼくの面倒をみるべきだ。今そのぼくが困ってるわけだから助けないといけないよ」
 ビッカはまじまじとムンカを見ました。ムンカの屁理屈です。やれやれとビッカは思いましたが、ムンカの筋道の怪しい話が好きでした。怪しげで愉快な話を聞きたいときはムンカと話すに限ります。
 「ビッカ、目がクルクルまわってる」
「なんだって」
「今目玉がまわったよ」
「目ん玉がまわるかよ」
と言ってみたものの、どんなふうにまわったのだろう。
〈正面→瞼の上→瞼の裏側→瞼の下→正面〉
〈上→右→下→左→上〉
ビッカは考えてしまいました。目玉がまわっている自覚はちっともないのです。とはいうものの目玉が赤くなった自覚もありませんでした。ビッカはとりあえず無視することにしました。
「ビッカってこまると目が回るんだね」
「なんだって」
「ほら回ってるよ」
からかうつもりが逆にからかわれてしまうありさまです。
 「それで次はどうするんだ。とりあえず起こしたけど」
ムンカのペースから戻そうと話題を変えました。
待ってましたとばかりにムンカは矢継ぎ早にたずねます。
「きみ大丈夫。どこから来たの。名前はあるよね。どこか行くあてはあるの」
その子はピクリともしません。まなこにも動きはなく、白くて薄い膜が覆っているような目でした。ちっとも反応しないのでムンカは気落ちしました。
「何が悪いのだろう。どう思うビッカ」
「甲高い声でせっかちにたくさん尋ねるからだ」
「せっかちって?」
「急ぎすぎだよ。一度に質問は一つだよ。でないと迷うだろ」
ムンカは尾をプルルッと振る。そして一つずつ尋ねました。
「きみ大丈夫」
反応無し。
「どこから来たの」
反応無し。
「名前はあるよね」
やはり反応無し。
「どこか行くあては有るの」
無視状態。
ムンカはすっかりしょげてしまいました。
「ぼくの声じゃだめみたい。ビッカ代わって」
 ムンカの甲高い声が聞き取りにくいのかもしれません。ビッカは低く野太い声です。少年に聞こえるかもしれませんが、人助けのようなことは柄じゃないのです。気乗りがしませんが、ムンカの頼みは断りがたいところがあります。なにか考えがあったりどこか切実なものを感じたりするのです。このときもそうでした。少年がなんらか口をひらけばきっかけとなって淀みなく進むかもしれません。その後のことは成り行きまかせでいいとビッカは判断しました。
ビッカは精一杯優しい口調で声をかけました。
「おい少年、名前は言えるか」
頭がピクリと動きました。
「聞こえているのは確かだね、ビッカ」
ムンカの表情が明るくなる。でも口を開いたわけではないので初めのときとさして進んだとは言えません。
「なにか口を利かせてよ、ビッカならできるでしょ」
 そう言われてできませんとは言いたくありません。ビッカは思案しはじめました。目玉が回り出す。相手について何もわからない。幼くはないし少年だ。そう思うと特別な気遣いはしないことにしました。
「起きろ少年、いつまでも寝てられないぞ」
ビッカはわざと不機嫌さも加えた声で言いました。するとその子は、
「起こさないで、とっくに起きてるよ」
小声でボソリと答えたのです。言い訳するような口調でした。
「目は開いているかい」
「起こさないで、ぼく眠っているんだ」
少年は目を閉じたまま答えました。
「聞いたかいムンカ」
「さすが! うまくいった」
ムンカは尾を小刻みにふって床を叩いています。喜んでいるのでしょうが、ビッカの考えは違いました。ビッカはムンカの肩に手を置いて話しました。
「そうじゃない。あの子の返事がおかしいと思わないか」
「ちっとも。どこが? 面白いよビッカ」
「起きてると言い、眠っていると答えたんだぞ」
「多分寝ぼけてるんだよ。目を閉じたままだしね。起きたくないときに起こされると言いそうじゃない」
少年が返事をしたことだけにムンカは喜んでいるようです。それ以外は気にならないのがビッカと違うところです。
「なにも気にすることなんかないよ。上手くいってるよ」
何も喋らないでうずくまった少年と三日三晩付きあったのです。初めて口を聞いたのだから喜ぶのもわからなくはありません。
 「次に何をたずねる。ビッカ」
ムンカは催促します。ビッカはムンカに向かってためらいがちに言いました。
「ところでムンカ」
「何」
「この子をどうするつもり」
「どうするって」
「起こしてしまったけど、このあとどうするの。起こす前に聞いておけば良かったよ」そこが気になっていたことでした
「どうして」
「これって厄介事だ」
「どうして」
「どうしてって」
ビッカは一つため息をつきます。
「何日も前からここでうずくまっているんだろ」
「ぼくが見つけたときからずっとだよ」
「おかしいよ、そんなこと」
「そんなことない。ただ眠っているようだったよ」
「三度も昼がやって来たのにずっと寝ているなんて、変だと思わなかったの」
「ちっとも思わなかった。ぼくも二日や三日くらいならじっとしてる。苦じゃないよ」
ビッカは口をつぐんでしまいました。ムンカの言うとおりです。冬になれば自分だってずっと動かない。春をずっと待つことになります。
苦笑いがビッカの表情に浮かびました。
 「ムンカ、この子も何か理由があってうずくまってるはずだ」
ビッカは話を変えました。間髪入れずムンカは応えます。
「ならその理由を知りたいと思わない?」
ビッカはまじまじとビッカを見ました。。ムンカがこんなに知りたがり屋だとは思いませんでした。尾で床をパタパタと叩いています。気分が昂っているあかしです。
「厄介なことになっても知らないぞ」
ビッカは目玉を回しながら言いました。
「大丈夫だって、ぼくを助けて何か厄介な事が起きた?」
ムンカは自信たっぷりです。
「ムンカは自分でやっていける。水辺が住処だ。心配ない」
ビッカも褒めました。貶すことでも言おうなら反論が三つ四つ返ってきそうです。
「でも、この子は水辺の生きものじゃない」
「わかるよそれくらい」
「起こした後どうする。考えてる?」
「簡単だよ。この子に聞けばいい」
ビッカの心配はムンカとは全く違います。
「複雑なことが簡単だよな、ムンカは」
嫌味の一つも言わないではいられません。ムンカはちっとも聞いていません。
「それで何が聞きやすいかな。やはり名前だよね。名前をたずねてみてよ」
厄介事という言葉をムンカは持ち合わせていません。こうなったらさっさと終えてしまうにかぎるとビッカはただうなずきました。
 「起きてるよな、少年。名前を教えてもらおうか」
その子はかぶりを振って口を閉ざしたままです。
ムンカが文句を言いました。
「ビッカ、それじゃ問い詰めてるみたいだ」
確かにそうかもと思いビッカは声を作って聞き直します。
「聞こえているよね。僕らは怪しいものじゃない。きみをここで見つけたんだ」
その子はかぶりを振ってこばみました。
「名前を教えてくれたら嬉しいな」
その子はかたくなです。このままでは埒があきません。ビッカは優しく話すのをやめました。
「ここはね、ドールハウスという宿泊施設なんだ。泊り客には名前と住所を聞いておく必要がある。教えてくれないとこれ以上この家には居られないよ」
ムンカが尾を上げて床をたたこうとします。ビッカの聞き方が気に入らないのです。しかし、その前にその子は口を開きました。
「嘘だよ、それ」
少年ははっきりとした口調で言いました。
「どうして?」
「ぼくは自分の部屋で眠った」
少年の返事を聞いたビッカは声が出ません。すぐ反応したのはムンカの方でした。
「自分の部屋ってどこにあるの?」
ムンカの甲高い声は聞こえないのか、またもや反応しません。
ムンカは残念そうにビッカを見ました。ビッカが話を続けます。
「それは困ったよ」
その子はうずくまったままで聞いています。
「きみの言うとおりだと、ぼくらがきみの部屋に無断で入り込んだことになる」
「嘘じゃないよ。自分のベッドに入ったんだ」
少年は言い張ります。ビッカは持て余して目玉が上下に揺れます。
「ほら、ムンカ、ちっとも話ができないよ」
ビッカはほとほと困ってしまいます。
「その問題、解決できなくないよ」
ムンカはキッパリと言いました。
「解決ってどうするの。あの子が言ったことわかってる?」
ビッカはムンカに問いただします。ムンカの考えがちっともよめません。
 ただビッカはムンカに一目置いていました。ムンカはあの夜の大洪水を生き延びたのです。濁流に流されながらも正気を保ち冷静だったのです。。それに比べれば安全な木の上でただやり過ごしていた自分とは違いました。
 ムンカはあっさりと言いました
「あの子の言った通りを認めればいいんだよ」
「え、それだけ? それでいいの?」
ビッカは拍子抜けしました。
「するとぼくらは侵入者っていうことになる」
「そうヒロムの部屋の不法侵入者だね」
ムンカはあまり悲観しません。いつも愉快そうです。
「そんなに目玉を回さないで。この子の言い分を認めたって事態は変わんないよ」「事態は変わらない」
ビッカは独り言のように繰り返しました。
「そ、変わらない」
ムンカは断言しました。
 ビッカは腕組みをしました。考えごとを始めると左右の目玉が回りだします。これでムンカの頼みごとは面倒になった。手っ取り早く終わらせて知らんぷりを決めこめるだろうと思っていたが、気長に構えるしかない。今日の散歩はここでおしまいだ。
 ビッカは大きく深呼吸しました。気を取り直してムンカを見ます。ムンカは言ました。
「これで彼の話を聞けるよね」
 たしかにムンカの言うとおりです。今必要なのは少年と角を突きあわせることではありません。さっきのように突き進めばこじれてしまうでしょう。少年は臍を曲げる。意固地になる。良いことが一つもない。ムンカは正しい。
 ビッカはその子に話しかけましたた。
「ごめんよ少年。ぼくらはどうやらきみの部屋に迷い込んだようだ」
ビッカは言葉を選びました。人聞きが悪い不法侵入は使いません。何か物色している空き巣みたいです。ムンカは嬉しそうに尾をふっていました。
 でもその子はひとことも話しません。先ほどはドールハウスという宿泊施設だって言ったのに、これでは嘘つきになります。信用までとは言わないけれど、悪意や敵意がないことは伝えないと。そこでビッカは話を続けました。
「ムンカはね、きみを三日も前に見つけたんだ。それからずっと気にかけているよ」
「ムンカってだれ?」
「友だちだよ。今ぼくのそばに居るよ」
「それで『ぼくら』だったんだ」
「わたしはビッカ。ムンカと一緒にやって来た」
「わざわざぼくを起こしにきたの?」
「そういうことになるのかな」
「ぼくはやっと眠ったんだ」
「それは知らなかった。眠れなかったんだね」
その子は強くかぶりをふリました。た辻褄の合わない話です。ビッカの目玉がくるりと回ります。でも何かわけがありそうです。
「膝を抱えて眠るのは辛くない?」
少年はこくりとうなずきました。
「自分の部屋だから無理して眠ることないんだよ」
 黙っていたムンカは甲高い声を精一杯抑えて話しかけました。ビッカの声を真似ています。
「聞こえた?今のがムンカだよ」
「ずいぶん苦しそうだよ。どうしたの」
 その子は声のする方に顔をむけ、静かに目をあけてました。目を開ける様子がとても自然です。本当に自分の部屋で起きたようです。
 ビッカは無理強いにならなくてほっとしました。自分から目を開けたのだからこれ以上のことはありません。しかし、目を開けたら開けたで懸念が生まれました。大声を上げやしないか。いきなり走りだしやしないか。泣き出しやしないか。ビッカは手のつけられない事態をおそれました。
 ビッカとムンカはじっと見守りました。
 その子は力の無い視線をただよわせ、ビッカを見ます。次にムンカを見ます。そして、口を開きまいた。
「ぼくはまだ寝てて夢見てるんだ」
 ビッカとムンカは思わずお互いを見ました。どうしたものかとビッカの目は回り、ムンカの尾っぽはパタパタと床を叩きます。
 先に口を開いたのはムンカです。
「そうだね。まだ夢の最中だよ。起きてたって夢を見れるよ」
ムンカは抑えた声でその子に伝えました。そしてビッカを見ます。ビッカも相槌をうちました。
「それはともかく、面白いことだよ」
ビッカはその子に向かって話します。
「きみはまだ寝ているというのに、夢を見ているきみは覚めている」
ビッカの話にその子は首をかしげます。
「ぼく、笑われているの」
「いやそうじゃないよ。『面白い』ってのは、なんと言ったら」
その子は表情に不安を浮かばせました。
「素晴らしいってことだよ」
ムンカが助け舟を出してくれます。
「そうだよ。君にしかできないことだ」
ビッカも褒め言葉を口にします。
「名前を教えてくれないか。わからないと話がしづらいよ」
「そうだよね。いつまで「少年」では呼びづらいよ」
ビッカの話を受けてムンカも少年に話しかけました。
二人には気も留めずその子はゆっくり辺りを見まわしました。
「ここはぼくの部屋じゃないや」
不安そうに言います。ムンカは抑えた声ですぐさま答えました。
「自分の部屋で寝てたって言ったんだよね。でも気にすることないよ。まだ夢の最中だよ」
「そ、夢だからさ、どこへでも移動できるさ。辻褄の合わないことがあっても気にすることがないさ」
その子は、ビッカとムンカをまじまじと見ました。
「目が赤いんだね、それにからだの色がカエルらしくない。あなたビッカ?」
「ま、そのいろいろと事情があってね」
今度は隣のムンを見ました。
「あなたがムンカ? トカゲなのヤモリなの」
「似たようなもんだ」
とビッカが答えます。
 ムンカの尾がビッカを引っ叩く音が部屋に響きました。

ドールハウスの月光浴

 「ぼくの名前はヒロム」
少年はぎこちない笑みを浮かべて言いました。
「わたしはイモリだ」
ムンカは尾を振りながら答えます。
「イモリ?」
「そ、イモリ。すみかは水の中だ、本当は」
ムンカは抑えた声で答えます。
「でも今は丘の上?」
ヒロムは不思議そうです。
「そういろいろ事情があってね」
横からビッカが言葉をはさみました。
ムンカはヒロムが興味を示したことで気を良くした様子です。
「生まれ育ったのは湧き水の池だよ。湧き水って知ってる? 綺麗な水なんだ。臭くなったりしないんだ」
ムンカは生まれ育った池を思いだすとうっとりとなります。
ビッカもだまって話を聞いています。ムンカから多くの話を聞いているわけではありません。
「地下からの水が、水底からポコポコと湧きでくるんだ」
ヒロムは柔和な表情になりムンカの話を聞いています。
「今の場所とは違うの? 離れたところにいるの?」
「ムンカはね、洪水のあった年に流されて来たんだ」
ビッカが説明します。洪水の話はムンカの口から放させたくありません。聞いていると辛くなります。
「もっと上流にあったんだ、生まれた所は。洪水に三日三晩流されてきたからね」
ムンカの抑えた声が震えています。当時の緊迫した光景が目に浮かんでくるようです。
「しがみつけるものになら何にでもしがみついたよ。次々とね。最後に見つけたのが、このドールハウスだったんだ」
三日三晩も流されたとはビッカも初めて耳にしました。ムンカが目にした光景は想ってみることさえできそうにありません。
ビッカも豪雨の光景を思いだしながら話します。
「ひどい雨だった。激しく水面を打つ音がそれは酷くて」
「有りと在るものを全部を打ちすえて雨音は空にまで響いていたよ。あんな音二度と聞きたくないね」
ムンカもつけ加えます。
「怖がることは当たり前のことだと思ったよ。臆病じゃないんだね」
ポロリとビッカも漏らします。
「ぼくらには安全な場所がないからね」
としんみりとムンカが言いました。
「毎日毎日空が黒雲で覆い尽くされ続け、音と雨が溢れ続けるんだ。溢れて世界は張り裂けそうだった」
「その後は大水だった」
「そんなにひどかったの」
ヒロムが尋ねます。
「そうなんだ。堤防がこわれてしまったせいだ。雨が降ればゆっくりと水位が上がるけど、いきなり激しい濁流だった、押し寄せてきたのは。逃げる余裕なんてあるわけないよ」
ビッカが説明しているとムンカのからだが震えだしました。
「大丈夫?」
様子に気がついたヒロムが声をかけます。ビッカも初めてみるムンカの異変でした。
ビッカはムンカに謝りました。
「嫌なことを思い出させてしまった。ムンカ、すまない」
「きっと生まれた池は厚い土砂で埋もれてしまってるよ。でもそんな姿は想いたたくない」
「ムンカはここが新しいすみかさ」
ビッカはキッパリと言いました。ムンカも尾を振ってそれに応えました。
「ヒロムの住むところはどんなところ?」
今度はムンカがヒロムに尋ねます。ヒロムの表情は少し曇りがちです。
「普通の街だよ」
「普通の街?」
ビッカが愛想のない声で繰り返します。ムンカの反応は違っていました。
「普通の街か。いいなぁ」
「そんなことが羨ましい?」
不思議そうにビッカが言います。
「つまんない街だよ。学校や図書館、八百屋やレストラン。ありふれているでしょ。特別なものなんか一つもなかった」
とヒロムは言いました。
「何も変わったものはないって、安心できるよ」
「ぼくはちっとも安心できなかった」
ムンカの考えにヒロムはそっけなく答えました。不満のありそうな言い方です。
それを聞いてムンカは辛そうな表情になリました。
「それが理由で、もしかして逃げてきたのか?」
ビッカは不躾でしたがヒロムに問いただしました。ヒロムはビッカの方を見ませんし何も答えません。表情が次第に固くなっていました。
「少し外に出てみようよ。気分が変わるよ」
ヒロムをじっと見ていたムンカは話を変えました。
ヒロムは眼を見開きました。
「大きな目をしてるよね」
ムンカは低い声でヒロムに聞こえるように言いました。
「眠くて閉じそうだったのに、やっと目が覚めたな」
笑いながらビッカは言いました。
 「さてと」
ビッカは掛け声をだして出口に向かいます。
「どう、起き上がれる?」
ムンカはヒロムに声をかけます。三日も横になっていたのです。ヒロムは手をつきゆっくりと立ち上がりました。
「足の具合はどう?」
ムンカが低い声を作って尋ねます。
「自分の足じゃないみたい」
「無理もないよ。三日も足の筋肉を使ってないんだ」
足元のおぼつかないヒロムは、ビッカに付き添われて外にでました。眩しさに目をほそめ手をかざします。
「三日も目を閉じてれば光りは目にいたかも。すぐになれるよ」
声を抑えたムンカが話します。声の出し方のこつをすっかり身につけています。
「光をあびて風にあたると気分も変わるよ」
「屋上にあがれば見晴らしが広がるよ」
ビッカとムンカが代わる代わる話しかけます。
ビッカはドールハウスのそばの木によじ登り屋根にとびうつリました。
「大丈夫かな、登れるかな」
ムンカは尾っぽでヒロムを木の枝に押し上げます。ヒロムは這うようにして屋根に上がりました。ムンカは、ビッカが垂らした枝にしがみついて引き上げられました。
 みんな揃って屋上に腰をかけ周囲を眺めます。
「気持ちいいよね」
ムンカはヒロムを見て言いました。
 水面の上を春風が吹いてきます。水の春草の香りが風に運ばれています。ヒロムは一つ深呼吸をして言いました。
「高いところは気持ちがいいよ。揺れるともっと良い」
ビッカはひょいと立ち上がって言いました。
「確かに高いところは気持ちがいいよ。屋根が揺れると怖いけどね。ここが親水公園だよ。以前と違うけどね」
ヒロムもビッカにならって立ち上がりました。
「ここが」
ヒロムはそう言って口を閉ざしました。周囲の風景を見まわします。まだ春でしたので夏のように生い繁った草々が見晴しを遮るまでにはなっていません。沈黙が続きます。
ビッカとムンカはヒロムの目を見ました。荒涼たる光景が瞳に映っていました。
「期待をはずしちゃったかもね」
ムンカは甲高い声でビッカに言いました。
「見渡すかぎり水と草ばかりじゃね」
無理はないといった口調でビッカも言いました。
「洪水の前には木道を散歩する人がいつも見られたんだ」
ビッカは昔を語ります。
湿地の木道もほとんど流されてしまっていました。土砂に埋まった箇所もあります。修復は一番後でしょう。そんな計画はないかもしれません。
「洪水の前と後ですっかり変わったよ。でもねこれはこれでいいと思っている」
ビッカはヒロムに言いました。黙ったままヒロムは広がる光景を見ます。
「ぼくの遊んでいる公園とはずいぶん違うよ」
「そうだろうね。ここは遊び道具なんかないからね」
ビッカは頷きながら言いました。
「正直ここの水はにごっている。でも水辺の木々や草木は輝いている。良い所なんだ」
ビッカはムンカが親水公園について何かを言うのを初めて聞きました。少しはこの地を気に入っているようです。
「水が汚いのに良い所? ムンカはへそ曲がりなの」
ヒロムがボソリと言いました。ビッカはクックと愉快そうに笑います。
「ぼくにヘソは無いよ」
抑えた声でムンカが答えるとヒロムは声を上げて笑います。
「ヘソが無いのにヘソを知ってるんだ、すごいね」
「それほどでもないよ」
ムンカは胸を張って言いました。
「そんなことよりビッカはねこの公園の管理人なんだ」
ヒロムはもう一度景色を見回します。
「こんな広いところを」
感心した様子でヒロムは尋ねます。
「でも何を管理しているの」
 不意の話題にビッカは目をまわしてしまいます。困っているビッカにかわってムンカが答えました。
「ビッカはね、毎日毎日親水公園を少しずつ散歩しているんだ」
「散歩が管理なの?」
「そう。ぼくはそう思っている」
ムンカはきっぱりと答えます。ビッカは慌てた様子で言います。
「管理なんて、そんな事言った覚えはないぞ」
ビッカは迷惑そうな表情を浮かべました。大袈裟に言われるとこそばゆくなります。
「でも散歩と言いつつ公園を見回ってるよね」
 ビッカはここ数年冬以外は散歩を欠かすことはありません。無意識のうちにいつもと違ったところはないかと見てまわっています。散歩を始めたのは洪水があった後からで、自分の住んでいる所がいとおしくなっていました。
 ムンカに言われてみればそのとおりかもしれません。いつも水位を気にしているのは公園におこる異変を見つける気持ちがあるからでした。
ビッカは首を横にふりながら言う。
「でも管理なんてやはり大袈裟だ。たんなる見回りだ」
 ヒロムが口を開きました。
「ぼくもよく公園には行くんだ」
「ビッカのように散歩なの?」
ムンカが尋ねます。
「まさかね。子供は散歩しないと思うよ」
「もしかしたら鬼ごっことか缶蹴り遊び? 公園でするのは」
ムンカが言いました。ヒロムはかぶりを振ります。
「そんな遊びしたことがない。缶蹴りってコーラの缶でも蹴って飛ばしっこでもするの」
ビッカは声を上げて笑いました。
「ぼくが住んでいた所には公園なんてなかったよ
ムンカの話にヒロムは意外そうな表情を浮かべました。
「池の近くにお社があって境内が遊び場になっていたよ」
「オヤシロって何」
「神社のことだよ。境内は子どもの遊び場だった」
「まあ広いからね。それに隠れる場所もあるし」
ビッカも一言いいました。
「走りまわると喉がかわく。すると湧き水を飲みにくるんだ」
「そんな水が飲めるの」
ヒロムは井戸さえ知らないようです。
「もちろんさ。夏は冷たくて気持ちが良い。冬はあったかいんだ。子どもたちは喉が乾いてガブ飲みだ」
「ぼくも飲んでみたいな」
ヒロムがそう言うと、ムンカがは尾を震わせ喜びました。
 ビッカは外れた話を元に戻します。
「それはさておいて、ヒロムは公園で何をしてたんだ」
ヒロムは少し言い淀みました。あまり聞かれたくないことのようです。
「どんな遊びをするの」
ムンカも知りたがります。
「ブランコ」
ポツリと言うとヒロムは空を見上げました。
「でももう無いんだ」
「無いってどういうことだ」
ビッカが尋ねます。
「町中の公園から姿を消している」
 真剣な表情で話すヒロムをビッカとムンカはまじまじと見ます。なにか大変なことが起きているのかもしれません。次にお互い顔を見合わせました。ビッカは目が回ってしまい、ムンカは尻尾を小刻みに振っています。
 ビッカが先に口を開きました。
「それは大変だ。一大事だ」
事態がわからなくてもすこしくらい大袈裟の方が良いと思ったようです。ムンカまでも、「それは大変そうだね」とおつきあいで答えました。ところが、これっきりビッカもムンカも黙ってしまいます。話題が続きません。
 沈黙を破ったのはヒロムです。これまでずっとしゃべりっぱなしのふたりが黙ってしまったのです。おかしいと思ったのも当然かもしれません。
「あの、ムンカ、ブランコって知ってる?」
ビッカはちらりとムンカを見て言いました。
「ムンカ、知ってる?」
ムンカは尾と顔を横に振って答えました。逆にムンカがビッカに尋ねます。
「ビッカはどう、知ってる?」
「乗ったことはないが見たことはある」
ヒロムはムンカのためにブランコの絵を描きました。
「ほら、こういう形なんだ」
空中に右手でスラスラと描いてみせます。
「それでどう遊ぶの」
ムンカは俄然興味をもちました。
「この座板に乗って揺らすんだ」
「揺らす? 揺らしたらどうなる?」
ムンカはパタパタと尾を振って尋ねます。
ヒロムはひと呼吸おいて返事をしました。
「世界が変わって見えるよ」
ゆっくりと答えたましたが、口にした途端、ヒロムは小刻みに震えました。それまで両親にも誰にも言ったことがない秘密を口にしたようでした。
しかしビッカの反応はそっけないものでした。
「何を大袈裟な」
と呆れ気味の口調です。ところが、
「本当に!?」
と驚きの声をあげたのはムンカです。その驚きはとても素直でした。わざとらしさがありません。馬鹿にするようなところは一つもなかったのです。
ヒロムは嬉しいときにどんな表情をしたのか忘れるくらい喜びました
「嬉しいよ」
ヒロムの素直なことばにムンカも尾を振って喜びました。
「ぼくも乗って揺らしてみたい」
ヒロムは目を見開いてムンカを見ます。
「ムンカは馬鹿にしないんだね」
「え、どうして?」
「ブランコって小さい子の乗り物だよね。だから」
ヒロムはそれ以上自分からは言いません。同年代の子でヒロムのようにブランコに乗る子は一人もいません。彼も十ニにもなっていれば当然なことだとわかってます。それでも揺らしたくなるのです。
 ムンカは尾を強く振る。まだ興奮が続いていた。
「そんなことはない。だって世界が変わって見えるんだろ」
ヒロムはゆっくりとうなずきます。
「乗ってみたいよ」
「揺らし方にこつもあるんだ」
「どんなこつ。初めてでもできるかな?」
「ブランコも選ばないといけない。どれでもいいわけじゃないんだ」
ヒロムもどんどん話を進めていきます。ムンカの興奮はおさまりません。尻尾をふりからだもゆらしています。
 黙って見ていたビッカの目玉が上下に揺れています。話に取り残されたと言うより戸惑いの方が多くを占めています。
 ムンカが話に乗ってこないビッカの様子に気がつきました。元の甲高い声でビッカに話しかけます。
「実はビッカ、言ってないことがあるんだ」
「そりゃなんかありそうだな」
ビッカは赤い目でムンカを見ます。
「ヒロムは最初からドールハウスにいたんじゃないんだ。もちろん眠っていたわけでもない」
「なるほど。じゃヒロムをどこで見かけたんだ」
「見かけたのでもないんだ」
「どういうことだよ」
「ぼくが運んだんだ」
「運んだって、どこから」
「沼の真ん中あたりに浮いていた」
「浮いていたってどういうことだよ」
「仰向けになって水草の上にのっていた」
ビッカはなるほどと首を縦に二、三度振りました。
「でも、あの子が流されてくるほどの増水はなかったよ」
今度は首をかせげてムンカに言いました。
「ビッカ、増水の話は二の次だよ。浮いたままにはしてはおけないだろ。放っておくと沈んでしまっていたよ」
その通りです。水草の上ではずっと浮かんではいられません。
「それで背に乗せてここまで運んだんだ」
「ヒロムはそのことを知っているのかな」
「どうかわからない。多分気をほとんど失っていたと思う」
ビッカの目玉がぐるぐる回ります。ヒロムはいったいどこから流されてきたのでしょうか。大きな疑問が残ったままです。
 「何話しているの?」
ヒロムがたずねました。まだムンカが普通に話したときの甲高い声はうまく聞こえないようです。
ビッカが答えます。
「ムンカが聞いたんだ。親水公園にはブランコはないのかって」
「ないの?」
ヒロムがたずねました。
「有ったよ」
「どこに?」
ムンカが嬉しそうに声を上げました。
「大洪水で流されたよ。跡形もなく綺麗さっぱり」
ビッカはあっさりと言いました。ムンカはいっそう残念そうな表情になリました。
「乗ってみたいな」
「無いものは乗れないよ。無理言わない」
「どっかにないかな」
「ぼくの知っている限りこの辺りには無いよ」
ビッカの返事にムンカは肩を落としました。
黙ってそのやりとりを見ていたヒロムが口を開きました。様子からムンカの期待があまりに大きいのに気が付いたようです。
「ごめんムンカ。誤解させたかもしれない」
「どういうこと?」
ムンカは低い作り声で答えます。
「世界が変わって見えるなんて言ったこと」
「え、じゃ嘘なの」
ムンカに落胆の色が浮かびます。
「いや。嘘は言ってないよ」
ヒロムはかぶりを振りながら言いました。
「実はね、揺らしたひとみんなに見えるとは言えないんだよ」
「そんなことならガッカリしないよ。試す楽しみができた」
「でもムンカの期待するような、良いものじゃないかもしれない」
「どういうこと」
「変わって見えてもつまんないって言う子もいるんだ」
「ひとそれぞれってことだね」
ムンカはちっとも気にしません。
「もう一つあるよ。ムンカ」
「何?。どんなこと」
ヒロムは隠していたこと口にするかのように話しました。ムンカはひたすら聞いています。
「ブランコによっても違うんだ」
「どういうこと、それって?」
「公園ごとにあるブランコ、当たり外れがあるよ。いつまでも揺らしていたいものと、さっさおりたくなるひどいものがあるんだ」
ビッカは目玉を上下に揺らしながらヒロムとムンカのやりとりを見ていました。
「それって探す楽しみもありそうだよ。ブランコをめぐる探険ができそうだ」
ムンカはちっとも動じません。
 ビッカは心配になリました。そんなに世界が変わって見えるというブランコに期待していいのでしょうか。ビッカは目玉を上下させて考えこんでいます。ただムンカの気持ちもわからなくないところがあるのです。生まれ育った湧水の池はもうありません。この親水公園はムンカには異郷です。湧き水とはかけ離れた異質の水に暮らしているのです。ビッカは、ムンカには胸に秘めた憧れの地があってもおかしくはないと思っています。「ビッカ、ムンカだよ」と言ってやって来る度にこのことを思い出す。
 「あまり期待しないほうがいいよ、ムンカ」
ビッカはゆっくりとはっきりとした口調で言いました。すぐさまムンカは言い返すように答えます。
「だって目の前の風景が変わって見えるんだよビッカ。今の親水公園が洪水前と同じに見えるかもしれないんだ」
聞いていてビッカは切なくなリました。

 「夕焼けってきれいだね」
 西の茜の空を見ていたヒロムが独り言のように言いました。すっかり夕暮れ時になっています。
「初めて見たの?」
そんなはずはないだろうと思いつつビッカは聞いてみます。
「ここでは初めてだよね」
助け舟を出すようにムンカが言いました。ヒロムはすっかり夕日に見入っています。
「話の続きは屋根を下りてからにしよう」
ムンカが誘います。西の空の色は刻々と変化しています。親水公園もドールハウスも夕陽のせいでいっそう輝きます。紅い紫の色に変わったときでした。見つめているヒロムの表情が険しくなりました。血の気が失せたように白くなっています。
「どうしたの。顔色が悪いよ」
ムンカが心配して声をかけます。
「夕焼けがどうかしたのか」
夕陽に照らされたヒロムにビッカは尋ねます。何か独り言のようにぶつぶつ言うとヒロムはうずくまってしまいました。その様子はドールハウスでヒロムを見たときと同じでした。扉が閉じられるように瞼が閉まろうとしています。ビッカは気を外らせようと咄嗟に声をかけました。
「ヒロム、ほら東の方から月が出てきたよ」
ビッカの意図に気づいたムンカも声をかけました。
「ほんとだ。ほらまん丸だよ。白く透きとおっているよ」
ムンカはヒロムを揺すりながら言いました。ビッカはヒロムの体をだきかかえて向きを変えました。青く白い月の光がヒロムの瞳にさしこみます。頬に赤みが戻りました。
「どう? 親水公園のお月様は」
ムンカが尋ねます。
「満月ってこんな色だった? それになんだか大きく見える」
ヒロムは不思議そうに言いました。
あたり一帯は青白くさえざえとした光に照らされています。
「ヒロムのところはどうだった?」
ムンカはおかしなことを尋ねていると思いました。月は親水公園でいてもヒロムの町であっても同じはずです。
「赤くて黒い、濃い紫色かな」
ヒロム正確には思い出し答えます。
ムンカは、驚いて声をあげそうになるのを我慢します。ビッカは二つの目玉が早く回ろうとするのを抑えます。そろって顔を見合わせましたが、あえて月の色については語りません。それよりもヒロムが少しでも元気をとりもどす方が大事でした。
 「お月見しようよ」
ムンカはそう言って屋根の上でコロンと仰向けになりました。ビッカも真似をします。
「月光浴だ」
ヒロムもムンカとビッカに挟まれて仰向けになります。ムンカがビッカに頼みます。
「あのねビッカ。お月様の歌うたってよ」
「そんな歌あった?」
「カエルってよく歌うじゃない」
夜の大合唱のことだ。
「あれっていいよね。みんな一斉に歌って空いっぱいに広がるんだもの。月にも聞こえるよね」
「ヒロムは五月蝿く思わないのか?」
「ちっとも思わないよ。静かな夜道は怖いよ。聞こえると一人じゃないって思えるし気をつけろって言ってくれてるようにも思うよ」
ビッカはまじまじとヒロムを見ます。
「良かったね、ビッカ」
じわりと嬉しさがこみ上げてきます。ビッカはおもむろに立ち上がります。背筋を伸ばし腹を膨らませ即興で歌います。

ゲッコーゲッコーぼくらにふりそそぎ
水面を照らす光のはしご
歩いて登ろうか泳いで登ろうか
ブランコに乗ったお月様

ゲッコーゲッコー光もゆれる
かそけき水面にさす月影
気球に乗ろうか風に乗ろうか
ブランコをゆらすお月様

ビッカは青く白い月の光を浴びてろうろうと歌い終えました。
とても静かです。ムンカもヒロムも声を発しません。二人とも眠っていたのです。すやすやと寝息をたてていました。ビッカは退屈だったんだと苦笑いを浮かべました。
 月あかりが二人を包みおおうように照らしています。その様子を見てビッカは少しホッとしました。眠ってしまえば嫌なことに囚われる心配もありません。
柔らかい光を浴びて二人は繭のように光っています。望月の夜の言い伝えを思い出しました。「月あかりの下を浮かれて歩くのは禁物だ。帰れなくなってしまうこともある」この話はずいぶん昔からの言い伝えでした。ビッカも誰から聞いたのか思い出せません。ささやく老樹、おしゃべりの巨岩、隠者の沼の主。
いつのことだったかも思い出せません。ビッカは会ったことのあるものたちを一つひとつ思い出していきました。
千年の睡蓮、風の楊柳、深淵の鯉、働き者の蜜蜂、田んぼのタニシ、土づくりのミミズ、・・・。
会ったものをありったけ挙げていきます。
青白く輝く月を見ながら数えているうちにビッカも眠りこんでしまいました。

ー 続く ー


第二話

第三話

https://editor.note.com/notes/nc540ee72ae4d/edit/

#創作大賞2024
#ファンタジー小説

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