終わったのかもしれない
父のことをたくさん考えた。
こんなに考えたのは初めてかもしれない。
私は小さい頃は、聞き分けの良い子で、思春期の反抗期もなかった。
家の手伝いもたくさんさせられたし、進路を決めるのも私の希望よりも、親の事情が優先された。ありとあらゆることを我慢させられてきたように思う。
社会人になってからは、経済的な援助もしたし(援助というレベルではないくらい)、借金の保証人にもなった。
私は私のために生きたことなどなかったから、生き方を変えてみることにしたのは30歳の時。限界だった。
自分のためだけに生きてみることにした。
その過程で、親とぶつかることは避けられなかった。
本当は何を感じ、何を求めていたのか、辛かった、苦しかった…両親に言いたくても言えなかったことをできる限り伝えた。取っ組み合いになる寸前くらいの大げんかもしたし、何年も無視したりもしたし、手紙で思いを伝えあったりもした。
残念ながら、私の期待していたような答えは得られなかった。
父も母も、ひとりの人間で、我が子であれど、我が子だからこそ、自分の人生を否定されて、それをあっさり認めるなんてできないということがよくわかった。
だけど、両親との冷戦、大げんかをすることで、私は私自身との信頼関係を結ぶことができたと思う。
私は私のために戦った。
これもまた自分にとっての初めての経験だった。結果はどうであれ、その過程で私は多くのものを得ることができた。
父の病がきっかけで、最近とてもよく自分の幼なかった日々を思い返している。
怒りや屈辱感で震えることもあったし、悲しみやさびしさが蘇り、泣いてしまったりもしていたが、短時間で霧散した。
映画を観て感情移入するような感覚に近いような気がする。
上手く表現できないのだけど、真実は真実として消えてなくなることは決してないが、もう今の私には侵食していないように感じている。
親のことを許してもいないし、心からの感謝もまだできていない。きっとできないと思う。
だからといって、恨みつらみ、憎しみも別にない。
自分でもなんとも不思議な感覚なんだけど、観察し続けてみたいと思う。
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