見出し画像

母が癌になった


「コロナ禍」にもいい加減飽きていた去年の9月、新潟に住む母が東京に遊びに来て、ちょうど彼女の誕生日だったのもあり東京湾をクルージングをしてみたり、はしごして酒を飲んでみたりを久々に楽しんだ。まだまだ暑さの残る東京で大汗をかきながらよく歩きよく遊びよく飲んだ。

一軒目の居酒屋を出て二軒目を目指して歩いている時だったと思うが母から不意に、「胸にしこりがあるから今度検査することにした」と言われた。病院が嫌い彼女が検査しに行こうと自分で思った時点で嫌な予感しかしなかった。
「わからないのに怖がっても仕方ないし、まずは検査してみて、結果教えてね」と言うしかなかった。せっかく久々に東京で会ったんだし、今日はまず飲もうと熱帯夜の路上で二人うんうんと合意した。


30代後半の人間の親が病気のひとつやふたつを抱えるなんていうことはありふれたことだと思っていた。ただしそれは自分の親以外に限りだ。母は若くして私を産んだのでまだ59歳だということもあり、完璧に油断していた。親が倒れたらどうしようかと考えないことはなかったが、私の稼ぎで何とかするという結論以外出すことがなかった。もう何年か、運が良ければ10年くらいは猶予があると思っていたからだ。

母が東京での一泊二日を楽しんでから1ヶ月後、胸のしこりは悪性であることが確実であり、大学病院を紹介されたとLINEが来た。その日私は一人で近所のワインバーにいて、覚悟していたつもりだったが母とLINEでやり取りしながらカウンターで一人で泣いた。しばらく一人で泣いたりして正気を取り戻しその後彼氏と合流する予定だったので、駅から飲み屋まで歩きながら概要だけ淡々と伝えた。
結局、深夜に私の強がりはちょっとしたことで全て崩れてしまい、路上で大泣きして彼氏に迷惑をかけることになる。いつもなら我慢してちょっと小言を言うくらいで終わるようなことが何もかも悲しくなった。

さっさと一人になりたくて、追いかけてくる彼を振りほどいて歩きながら私はなんでこんなに悲しいのだろうと必死に考えた。まだ癌のステージもはわからないし、すぐ死ぬわけでないとわかっているのに。
母はまだ50代なのに、病院嫌いなのに、大学病院での検査も治療も、これから母に起きることが全て不憫で、かといって私もずっと側にいてあげられないし、ただ離れて住む母親が病気になるだけでこんなにもつらいものなのかと。22歳で私を産み、39歳で離婚をして次の年に私が大学入学で上京してからずっと一人で生きている母の不憫さからも、母が家族と呼べる唯一の存在だということからも私は目を逸らしていたのだ。
「ママがかわいそうで仕方がない」
そういって30代後半の女が路上でわんわん泣くのだ。強がるもんじゃないと思った。

11月の終わりごろ母は正式に乳がんの告知を受けた。しかも左右両方にあることがわかり、年明け手術することが決まった。「おそらく癌である」という状況よりは告知されて治療の目途が立った状況のほうが精神的にはいくらか楽だった。こういったやり取りはあえてLINEでやり取りしていた。不必要に私の感情も伝えたくなかったし、泣いてしまったりしたら一番つらい本人に申し訳なかったからだ。

「部分切除か全摘か決めないといけないんだけど、この年になっても乳には未練があって、全摘して再建手術をしようと思ってる」とメッセージが来た時の私の感情をどうにか表現したかったのでこのnoteを書いている。少しの驚きと共に、胸が詰まった。

私にとって母は「女」から一番遠い存在の女性だった。よく言われる「女を捨てている」みたいなものとは全く異質のものである。身なりや態度ではなく彼女の生き方に女である故の甘えを一切感じず、そこに彼女の誠実さと不器用さへの歯がゆさを感じていた。
乳房を女性の象徴とするならば、その彼女が乳に未練があるというのだ。ああそういうものなのか。そりゃそうだよな。
「未練あるだろうよそりゃ 体の一部がなくなるのは悲しいよ」
そう送りながらまた泣いた。

コロナを言い訳に、できる限り帰省していなかったのに大晦日と1月半ばにも新潟に用事があったのでなるべく母に会った。大晦日から元旦にかけては温泉をとって二人で泊った。郵便局に勤める母からすれば大晦日に私とNHK紅白を最後まで見てゆっくり過ごすことなど十年以上ぶりで新鮮だったようだ。テレビを観てずっと私に話かけてくるので時に鬱陶しくなりそっけなく返答したりしていた。
帰ってから「歴史に残るいいお正月でした」とメッセージをもらってさすがに罪悪感がわいた。

手術を行う大学病院は一切面会できず、手術が終わったら病院から私に電話がかかってくることになっていた。何かあったらどうすればいいのだろうか。死に目にも会えないのか?と頭をよぎる悪いことはなるべく考えないように過ごした。

入院前日に何となく母の口座に10万円振り込んだ後母に電話をした。
「乳房再建手術をするって言ったとき、ユカリにそうだよねぇって言ってもらったのがすごくうれしかった」と泣いていた。「私のメンタルのためというか、手術が終わって、何もない胸を見た時、耐えられないんじゃないかと思って」
そう、だから私は人が考えて出した結論はできる限り否定したくないのだ。誰が何と言おうと母は正しいし、私は正しかった。

手術当日はさすがに会社を休ませてもらった。癌の切除と再建を一度にやるので7時間ほどかかり、夕方ごろ病院から電話がかかってきた。
「癌の切除と再建手術が完了しました。リンパへの転移も確認しましたがありませんでした」
執刀した女医の淡々とした事務連絡というような口調が頼もしかった。
「あの・・・面会できないんですよね」
「そうなんです。退院してからお会いください」
ありがとうございました。と言って電話を切った。その1時間後に母からなんと自撮りの写真まで添えられたLINEが送られてきて、相変わらずの母だったし安心して私は飲みに行ったのだった。


術後の回復も順調で昨日は「明日から4人部屋だから今のうち」と電話がかかって来たほどに元気だった。退院して行動できるようになったらまた東京に遊びにくることを楽しみにしているので、酒と美味しい何かでもてなしたいと思う。


最後に、母と私を慮って優しい言葉をかけてくれた人たちに心から感謝します。大きな支えになり、愛を感じました。ありがとう。


お読み頂きありがとうございます。最近またポツポツとnoteを上げています。みなさまのサポートが私のモチベーションとなり、コーヒー代になり、またnoteが増えるかもしれません。