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身に受けたセクハラを思い出す

先週私はシンガポールに出張に行っていた。

その間に財務省福田事務次官のセクハラ問題があって私のTwitterのタイムラインもとても賑わっていたのだが何せ出張が結構大変だったし、大変ではあったものの充実していたので私の時間をセクハラ問題への言及につぎ込む気になれなかった。
思いっきり風邪をひきながら昨日帰国して、今日。改めて書いてみている。

うう、つらい。

文春オンラインの麻生大臣の発言とこのツイートを見て前職でイケメンと言われている男性からひどいセクハラを受けたことを思い出した。
そしてセクハラを受けたこと自体よりも周りの男性達の「イケメンに触られてよかったじゃん。お前もまんざらではないだろう」と信じてやまない声が私を絶望させたことも。
会社の同僚に触られ周りから心ない言葉を浴びせられ、二次被害でしかなかったし「不快だつらいと訴えてもこんなにも理解されないのか」という気持ちになり本当に絶望という表現がぴったりだった。

本当にみんな一寸の曇りもなく「イケメンに触られることはセクハラではない」と信じ切っていて、恐怖すら覚えた。触ってきた男性もこういった言葉を言ってきた男性も全員マネージャー以上の偉い立場だったが、今考えると全員ぶん殴ってやればよかった。

前職の環境は今思い返しても本当に酷くて「1年彼氏いないんですか?クソですね」と同い年の男性の同僚にいきなり言われたこともあるし、
酒の席でほとんど初対面なのに「セックスしたい」と言われたこともあった。

セクハラ問題に関して私がとにかく言いたいことは、セクハラは個人に対する侮辱であり冒涜だ。立場が近い男同士がこんな侮辱だったり冒涜だったりをされたら大喧嘩になるだろう。しかし何も言えない女性が多いのが事実だし、私も何も言わずに前職を去った。誰に言っても理解されないし、戦う気力も失せていたからだ。

しかし 何も言わない=甘受では絶対にない。

蔑まれたことを怒れなかった事柄を思い出すと、自分が可哀想で可哀想でいつまでも辛くなる。何でもっと、何よりも大事にしなければならない自分のために戦えなかったのだろうと何年経っても後悔と傷が消えない。

「ぶん殴ってやればよかった」と言ったりすると「法で裁こう」と正論をかざしてくる人がいてもちろんそれは正しいとしか言えないが、そもそもセクハラ自体がほとんど暴力だし、法で制裁を加える道のりの中で被害者であるこちらがどれだけ傷ついてどれだけリスクを負わないといけないんだよと言いたい。

いやーこう具体的に考えると本当に「ぶん殴る」しか対応策がないように思えてきてしまった。

極論で申し訳ないが、でもぶん殴られる覚悟と相手に一生の傷を残す覚悟がある人間だけがセクハラに挑んでほしい。

ということで、今日はこのあたりで。
ではまた。


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