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ある昔の記憶

※若干汚い話をします。苦手な人は読まない方がいいかもしれません。

一日を終え、自宅の風呂に浸かりながらエレファントカシマシの『俺たちの明日』を熱唱しているとサビに差し掛かる直前辺りである昔の記憶が突如として甦った。

僕の一家は毎年の正月と夏休みになると遠方にある父方の祖母の家に帰省する。今年は例の感染症が流行していることもあって帰省することはできなかったが、毎年数回の田舎での生活はある意味で僕の原点であるといっても過言ではないほどかけがえのないものだ。今回はそんな田舎での生活中に起こったとある出来事のお話。

中学に入学した年の夏。毎年のように僕は家族とともに父の実家に帰省した。
帰省して二日目だっただろうか。父の運転する車に乗って家からやや遠くにある中くらいのデカさの公園に遊びに行った。惨劇はそこで起きた。
その公園には一つのすべり台があった。ただすべり台が公園にあるだけならばnoteに書くようなことはそうそう起こらない。問題はそのすべり台の「材質」だった。
皆さんが一般的に思い浮かべるすべり台の材質は「金属」や「プラスチック」などだろう。当時の僕はそれも普通だと思っており「例外」の存在など知りもしなかった。
しかしその公園のすべり台はなんと「木製」だったのだ。その後の僕の経験からものを言うと木製のすべり台自体はさほど珍しくはない。だが中学生当時の僕にとって「木のすべり台」との出会いは非常に魅力的なものだった。人間の持つ無限の好奇心をダメな方向に特化させたような人間である僕にとって木製のすべり台は興味を抱くのに十分すぎるほどのものだった。僕の視野は瞬時に狭窄した。そのすべり台が「どのような状態であったか」などはまるで眼中になかったのだ。

事の顛末を先に書くとしよう。木製のすべり台を那須塩原のゲレンデよろしく勢いよく滑り落ちた結果、僕のケツには大量のささくれが深々と突き刺さった。実は、屋外に設置され長年風雨に曝されたであろうすべり台の表面はトゲトゲに毛羽立っていたのだ。加えてあの日は気温がかなり高く、僕は丈の短い薄手の半ズボンを穿いていた。そんな状態で「ささくれすべり台」に挑めばケツを負傷するであろうことなど普通の人なら簡単に予想できるだろう。だが僕は生来、軽率と不注意に足が生えて歩いているような人間なので「生まれて初めて見た木で出来たすべり台で遊びたい」という本能的な欲望に従うことしか頭になかった。その結果が招いた極めて自業自得な悲劇だと言える。そして悲劇はこれだけでは終わらない。

間抜けな理由での負傷だったがケツの痛みは冗談ではないほどだった。とても楽しく遊べる状態ではなかったのでその後すぐに祖母宅に帰還した。幸い傷はさほど深くなく、家での治療で処置できるほどだった。よく指などにささくれが刺さったときは、針を用いてささくれを傷から摘出するという療法が用いられる。あれを僕のケツで行おうという話になった。ギャグマンガの如き提案に若干気色ばんだが「これも自分の蒔いた種だ」として潔く処置を受けることにした。僕一人では治療は行えないため執刀医に僕の母が任命された。

昼間から下半身を丸出しにしてうつ伏せになり、自分の母親にケツに刺さったトゲを抜いてもらうという絵面は傍から見れば滑稽極まりなかっただろうが(実際近くで見物していた父と妹は爆笑していた)僕自身は恥辱のあまり死にたくなっていた。それでも処置は着実に進行していく。刺さったささくれが一本、また一本と抜けていく度に苦痛と恥辱は和らいでいった。母も相当集中しており、かなり尻に顔を近づけて状態でオペを行っていた。残り数本で終了、というところで僕の身体に異変が起きた。というのも下半身が裸になったことで僕の下腹部も外気に晒されることになった。汗ばんだ腹が冷えた床の間に直接触れ続けたことによって僕の腹は急激に冷やされていたのだ。そして起こるのは、ある一つの残酷な結末だった。

「逃げろ母さん!!!!」

声が音になるよりも早く僕の肛門は屁を放っていた。前述の通り母は真剣になるあまり、かなりケツに顔を近づけて処置を行っていた。そのことが仇となってしまった。母はあろうことか息子の生の屁を顔のど真ん中で受け止めてしまったのだ。このような状況に直面した時、人間という生き物が抱く感情はたった一つ。「怒り」である。母はあらん限りの力でもって僕のケツを叩いた。叩くというよりあれは最早爆撃と言った方が適切だ。先ほどのささくれの痛みとは比較にならないほどの激痛が僕のケツを抉った。だが、抵抗などできるはずもない。どう考えても悪いのは僕ただ一人だ。怪我をした人間の治療をしてくれている人間に対し屁を浴びせかけるなど、世が世なら犯罪心理学の教科書に載っていてもおかしくないほどの悪行である。犯罪を実行したものに反論の権利はない。僕は激痛に呻きながら母の気が済むまで爆撃と罵倒を受け続けた。

爆撃が止んでからも母からの罵倒が止むことはなかった。「風圧が直で来たぞ」「おまえ屁の風圧を顔で受けたことあるのか」「硫黄の香りがした」「どうして我慢できなかったんだ」「これから一生食事の時はおまえの嫌いな献立だけを作り続けてやろうか」など、立て板に水の如く次々と罵倒は飛んでくる。当然その間僕はずっと正座だ。温厚な母親があそこまで僕を痛罵したのは後にも先にもあの一回だけだ。説教を受けながらふと視線を横にやると父と妹はまだ笑っていた。妹に至っては水揚げされた魚のようにもんどりうっていた。さすがにあれには若干腹が立った。

なぜ急にあの事を思い出したのかは全くわからない。過去の記憶というものは得てして思いがけない場面で思い出されるものなのだ。あまり思い出したくはない忌まわしい記憶だと思い込んで一方的に封じ込めていたがこうして改めて思い出してみるとなかなか馬鹿馬鹿しい話だなと思う。これを読んでいるどこかの誰かが少しでも笑ってくれることを祈らずにはいられない。そうすれば少しは僕と母親の苦しみも報われることになるだろうから。

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