1音下げて、春

なんか色々書いてたけど生きる気力なさすぎるので書けないからとりあえず春の部誌に寄稿したやつあげる

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慣れ親しんだ旋律が耳に入る。軽やかにしかし芯のある柔らかな声。私は、これが彼女が奏でているものだと知っていた。
「またここにいたの」
「うん、だってここにしかわたしが自由に歌える場所はないもの。」
そう言って彼女はピアノからそっと手を離して、まるで愛する人のように柔く撫でた。
細く開けた窓からふわりと春風が入り込んで、彼女の栗色の髪の毛を巻き上げる。甘い香り。
「シャンプー変えた?」
「うん、この前桜の香りの限定品、もらったから」
左の指にくるりと髪の毛を巻きつけて整えながら彼女は言った。
「ああ、宣伝してたやつ。」

ついこの間始まったものだった。
桜舞う春の空の下、彼女は白いワンピースを着て風に吹かれている。少し強く吹いた風が彼女の髪の毛を揺らす。彼女がぐっとアップになる。カメラ目線、微笑み。「恋する、君に。」ふわっと桜が画面を覆い尽くす。
そこでCMは終わった。

そっと栗色の髪の毛に触れる。
「いい香りだね」
「そう?澪もこれ使う?たぶん、あなたの髪質にもあうと思うんだけど」
すらっとした細い指が私の髪の毛に触れる。
「ちょっと、擽ったいよ。」
「澪だって私の髪触るじゃない」
「そうだけどさあ、私の髪の毛短いからくすぐったいし。」
「そーなの?」
「そーなの。」
ふうん、と納得したようなしてないような返事をして、彼女は話を続けた。
「澪はシャンプー変えないのね。」
「この前貰ったやつ気に入ってるからリピートしてるの。」
「ああ、あれね、気に入ってくれて嬉しい。」
まあ、いいや。そう言って彼女は鍵盤に向き直した。
ぽろり、とソの音が鳴る。ふわり、と微笑んだ。それからすうっと息を吸って。この息を吸う瞬間が私は好きだ。最初の1音と呼吸の隙間。彼女のその瞬間を、私は今、独り占めしている。
彼女の纏う空気が声をはらんで膨らんで教室中を包み込む。彼女の色は春の色だ。薄桃、若草、菜の花、空間いっぱいに満たされるその色は人を魅了する。魅了するから、彼女は、私の手の届かない所に行ってしまう。
最初から私のものなんかじゃないけど、でも、それでも、この時間だけは私だけの彼女だった。

「私、ね。オーディション受かったの。」
彼女は私に告げた。数年に1回の大手事務所のオーディション、らしい。受かると思ってなくて、などとは言わず彼女はずっと前からそれを知っていたかのように静かに告げた。
「おめでとう」
私はよく分からないまま上滑りするその言葉を転がした。そのうち、彼女は東京によく出ていくようになった。海の見える、坂が多いこの街から東京までは日帰りでは行けない。彼女は学校に来ない日が増えた。来ない日が増える事に彼女をテレビで見ることが、駅の広告で見ることが、増えて行った。学校に来ても彼女はどこかうわの空でどこか遠くに行ってしまったようで。私が彼女だと思っていたものはこの音楽室でしか見られなくなってしまった。
「あのさ、東京、いくんだ。」
薄々、感じ取っていた。無理があった。彼女の人気は目ざましいものがあったから。彼女が学校に来る日がほとんど無くなっていたから。
「そっか。」
わかっていたから、泣かないと決めていた。笑って送り出そうって。私の顔を見て、彼女は一言、流石だなあ。とそれだけ言った。

淡々と日々は過ぎていった。相変わらず彼女が学校に来る日は少なかったし、私は私で日常を繰り返していた。時々、音楽室で会合するだけの日々。少しだけ話して、彼女の歌に聴き入って、口ずさんで。それだけの時間。それだけでよかった。

ふ、と最後にひとつ息を吐いて彼女はピアノを閉じた。
私は小さく、拍手をした。いつもの通り。彼女は小さく一礼した。いつもの通り。
「帰ろっか。」
いつもの通り、彼女は言った。
「そうね、そろそろ閉まっちゃう。」
いつもの通り、私が言った。床から立ち上がってスカートをはたく。彼女は椅子を引いて立ち上がって伸びをする。いつもの通り。鞄を持って、コートを着た。春めいてきたとはいえ、まだ朝晩は冷えるから、私はダッフルコート、彼女はピーコートを着ていた。それからマフラーを巻いた。
「いこう。」
ガチャンと重々しい音を立ててドアが閉まる。廊下は窓から入る夕日で朱色に染まっていた。
二人とも、何も喋らなかった。この前見た彼女のドラマのこと、CMのこと、新曲のこと、話したいことがまとまらない。夕日のせいということにした。今日の夕日があまりにも綺麗だったから。階段をおりて、下駄箱にたどり着く。私と彼女は同じクラスだった。ローファーを手に取る。私は茶色、彼女は黒。私は3センチヒール、彼女は5センチヒール。朝からよく晴れていたから2人とも傘は持っていない。
下駄箱から校門までは桜が並んでいる。まだあまり咲いていない。今年は入学式頃が丁度満開だと言われていた。
「ねえ、」
彼女が切り出す。
「今日ね、」
「今日、」
彼女にかぶせるように私は話し始める。
「今日、最後の音、いつもより1音、低かったよ。」
珍しいね、と続けた。あまりに白々しくて拙い誤魔化し。
「そうかな、まあでも澪が言うならそうなのね。明日テレビで歌うから気をつけなきゃ。」
彼女は笑って言った。流石だね、私は心の中で言った。
校門をでると私たちは逆方向に歩いていく。
「じゃあ。」
彼女はひらりと手を振った。
「じゃあね。」
私も、軽く手を上げる。いつも通り。春の花が咲き始める道を振り返ることなく歩いていく。
歩きながら小さく彼女の歌を歌う。声がひしゃげて、最後の音が1音下がる。とめどなく涙が流れた。春が来る。

------- 2020.3   新歓号

これ書いてた頃に戻りたいなって一瞬思ったけど特にいい思い出もなかった



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