わたしは「不真面目」になれなかった。|なみかわのなかみは vol.0
小さい頃から「不真面目ぶる」ことに憧れてきたけど、結局一回もできなかった。先生やバスケのコーチ、家族や友達の期待には応えようとしてしまう。そして、それをしたあとのことを想像すると心が痛む。
わたしにとっては、ピンポンダッシュや校区外で遊ぶことが精一杯だった。
結局そのまま竹を割ったような性格で(自分で言うのかい・・)育ってきてしまったがために、24歳になって「真面目すぎてつまんない自分」がイヤになってきた。「わたし」そのものがおもしろくない。
おそらく、知らず知らずのうちに高くなっているであろうくだらないプライドも関係しているんだろうな。
おもしろいことがしたい、と考えはじめると以前やってみたアイスランドの間欠泉で温泉卵をつくるくらいしか思いつかず、何かないかと頭を振り回していると壁に後頭部をぶつけてしまった。地味に痛い。
わたしが真面目なものだから、わたしが「おもしろい」と感じて聞いてくる話はやっぱりどこか真面目なままなのである。
臨場感のある文章よりも、アーカイブに近い形で書いてしまっているので、時代にはあまり寄り添えていないかもしれない。文章は、真面目すぎると重くなる。
でも、ゆっくり読みたい時に訪れる本棚をつくりたいという思いは変わらなくて。となると、自分の視点を洗練させていかないと誰にも読んでもらえない。
今は少しずつWEBや小冊子で書く経験を積ませてもらおうかな。
おもしろい文章を書けるようになりたい・・
わたしだけでおもしろくなるのが難しいなら、日常の小ネタを集めてもいいかもしれない。小ネタが集まる場とは一体。
そんなことを考えながら「おもしろい」とは何かを細分化させてみると、興味深さと笑いのパートがあるように思う。それがいい塩梅なのが、きっとわたしにとっての「おもしろさ」なのかもしれない。あったかい要素もあるのかも。
うまく伝えられないけれど、結局自分が感じたおもしろさしか伝えられないわけで。
そう思って思い出したのがさくらももこさんのエッセイ。
小6の時にハマって、おばあちゃんからもらった図書券で買って、ずっと読んでいた。
あんな風に、何気ない日常の延長を、少し違う視点から書けないだろうか。
最近だと、ほぼ日の「あんこの旅」がおもしろくていいなぁと思っていて。
何よりもつくっている側が楽しんでいるのがすてき。
「おもしろい場」があれば「おもしろい会話」がはじまって、それを実況するから「おもしろい記事」になるのかもしれない。
でもきっと、いろんなよみものが並んでいるから感じるおもしろさなんだろうな。
まだ、もう少し、わたしが現在地で「おもしろい場」をつくるためには真面目さが必要かな。そんなことをあの場で感じたのは確かで。
やっぱりわたしは書くことだけで生きていかないんだな、と思ったのは、まだここで場がつくれていないからなのかもしれない。心のつっかえがとれたらまた、挑戦してみようかな。
それにはもう少し修行が必要だし、積み重ねていかないとだし、来年はおそらく環境も変わるので、今の間に少しずつ・・なんて話し出すとまた真面目になってくるので、この辺でおわろうと思います。
8月に発表したCIRCULATION KYOTOのプランも、「らしいね」と言われてしまった。語弊を恐れずに言うなら、うれしいのは間違いないけれど、「そう見えるんだな」とも思った。これに関してはチーム全員のカラーが反映されているんだけどね。
つくりあげられてしまった自分のイメージに反抗するかどうかは自分次第なんだけど・・
脱真面目は、日本にいる間はできないのかもしれない。
オリンピックが終わった頃に、ひとりでおもしろいと思う場所へ行ってみるのもひとつかも。
それまではしばらく、がんばるしかないね。
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