あさとよるの関係性は、きみに宛てた手紙と、すこし似ている。
あさ。あさは、こころが、しずかだ。
まぶしい光のわずらわしさや、ふとんとからだのぴったりとした感じ、すきなひとと食べる朝ごはん、へんなくせのついたまえがみ、せなかごしにかける、いってらっしゃいのこえ。おまけに、わすれものない?も。
ぜんぶ、はじまるまえの、あさ。
めがさめて、ほんとうにすぐのわたしは、なにいろでもなくて、なにものでもなくて、くうきとわたしのさかいめをさがしているような。とびきり、さいしょのあさは、だいたい、そんなふうなのだ。
だから、そんなあさに、あたまに浮かんだことや、こころに住んでいるだれかのことを、わたしはとても、いとおしくおもう。
にんげんは、すぐに忘れてしまういきものだから、あさのいろをわすれて、ときどき、よるに、のみこまれてしまうけれど、たましいのなかで、ひかりつづける、いまを、おぼえておいたら、たいていのことは、だいじょうぶ。と、おもう。
そうやって、だいじに、だいじに、あさがくれば、よるにまけない、わたしになれるとおもう。よるのしずかは、あさのしずかよりも、ちょっとこわいけれど。居心地はわるくないし、あんしんする。でも、からっぽには、なれないような気がしている。
てがみをかく。宛名には、きみのなまえを、ていねいにかく。ほんぶんは、いきおいのまま、かくときもあるし、じっくりなやんで、ことばをえらぶときもある。
でも、いつだって、封筒にのりをつけるまえに、もういちど、読み返すのが、わたしのきまりごと。あさになって、からっぽのわたしがよんでも、溶けるかどうか、みきわめる。
ぜんぶエゴだけど、わたしとわたしの、大切なやくそく。
けっして、よるを、わるものにしたいわけじゃない。けれど、まっくらは、こわくて、センチメンタルになる、たぶん、そういうものとして、うまれてきているのだと、おもう。
どうしようもなく、ひとりぼっちのよるには、じぶんの手と手を重ねて、いのるように、ねむろうね。
だからね、じっくり、わたしのさかいめを、わからなくするの。くうきと、わたしが、ひとつになったら、あとはもう、ねむるだけだから。だいじょうぶだよ。
ぜんぶのわたしを、だきしめる。そしてまた、あさがくる。きのうも、きょうも、あしたも。きっと、きっと、いつもとおなじ、しずかな、あさが、やってくる。
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