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美しさとは何か。

ちゃお。anoです。

いま、わたしは、うららかな春の風に包まれて、とてもしあわせなきもちです。ほんとうは、明日のゼミで使う資料をまとめなくてはならないし、水面下で書いたり消したりを繰り返している原稿も進めたいし、そういえば、履修登録も終わっていない。やるべきことはたくさんある。が、今日は特別。言い訳をしてでも、noteを更新します。

何と言っても、今日の私は休日なのです。久しぶりに予定のない日。予定がない、というのは、やるべきことがないという意味ではなくて、誰かとの約束がない、という意味。時計の秒針に急かされなくて済む、という意味。

昼まで布団の上で微睡んで、シャワーを浴びて、伸びっぱなしの髪を三つ編みにして纏め、いつもの図書館で、いつもの席で、温度のある言葉に触れて、心をたくさん動かしたあと、エスカレーターで一階にに降りて、無脂肪のラテを頼み、カフェのテラス席に腰掛けて、おひさまの光を浴びながら、犬の散歩をする人や、ベンチでおしゃべりするおばあちゃんや、規則的な信号に止まったり動いたりする車を見ながら、ぼーっとしたり、考え事に耽ったり、している。久しぶりに肩の荷が下りた、って感じ。

思えば、こんな風に、ひとりの時間を過ごすのはいつぶりだろうか。朗らかなきもちで過ごせるのは、いつぶりだろうか。

世の中は複雑すぎる。というか、人間は複雑すぎる。色んな要因が関わりあって、身体や、心や、誰かとの関係に、変化が起きる。それを、全部明らかにするなんて、到底無理なことのように思えるのに、否、思えるから、学問も学者も存在し続けているし、私達も、地球規模で見たら小さすぎるくらいの脳みそを、感性を、働かせ続けている。能動的か、受動的かは、わからないけれど、心臓はいつまでも動き続けている。

だから、だから私は、わたしを護るしかなかった。とさえ、思う。

ちっちゃな自己愛の世界で溺れるように生きている。それは、自分の意思と反する形で、外の世界に染まりたくない。というか、染まってやるもんか。なんて、謎の意思を装っていたが、蓋を開ければ、臆病なわたしだった。混ざるという行為そのものに対して、嫌悪感があった。思えば、踏み込まれるのが、汚れてしまうのが、怖かった。外の世界と内の世界。境界線が不明瞭になる。そんなことは、考えるだけでも恐ろしかった。

自分以外の全てを疑うようになったわたしに差した光は、人、でした。本の中の一節、偶然の会話、やさしい音楽、柔らかな映画。すべて、自分以外の誰かによって、創られたモノでした。信じてもいいかも。と、思いたくなるような欠片が、目を凝らせばそこらじゅうに散りばめられている。

だから、わたしは、美しいと呼ぶのには不適切な感情を切り捨てることを、少しずつ、意識的に、止めるように心掛けました。自分に都合の悪い現実から、目を逸らすのをやめると、生活は幾分か苦しくなったけれど、より本質に触れている。そんな心地もする。

自分の心を護るために嘘をついたこと、沢山あります。等身大の自分を見せるなんて、できません。そんな風に言い訳を重ねて生きていた時代があること。自分でもわからないままに迎えた朝も、トイレに隠れてひっそり泣いた昼も、シャワーの水を頬に滑らせて泣いたつもりになった夜も、全部、わたし。

それでも、こうやって、ひとり。インターネットの海を自由に泳いで、わたしと向き合いながら、自分と上手に付き合う方法を探して、トライアンドエラーを繰り返しているのも、紛れもなく、わたし。

もともとできたこと、できるようになったこと、まだできないこと、これからできるようになること、ずっとできないままのこと、全部を引き受ける。なんて、必要ないけれど、きょうのわたしは、きのうのわたしよりも、ほんのすこしだけ、美しい気がする。

そんな感じで、綴っていると、オレンジ色の光が濃くなって、淡い灰色の空気に包まれます。春といっても、肌寒い。私の前を通り過ぎる犬を数えていたはずなのに、もうわからなくなってしまった。まぁ、いっか。

さてさて、偉そうなことを書いたからには、今日のタスクを終わらせます。できないなりに、できることを。それではまたね。

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