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ノンカロリーシュガー

ちゃお。anoです。

課題をほおって、noteにいます。よろしくないと思いつつ、きょうはそういう気分なのです。うまく、まとまっていないかもしれない。けれど、書きたいので書きます。

5年ほど前、わたしがまだ、大学生になりたての頃。大学デビューを目論んで、髪の毛をすこしあかるく染め、色んなともだちに声をかけ、にこにこしていた、18歳、夏。はじめての恋人に、浮かれる、わたし。

あるとき、高校時代の恩師や、社会人楽団の先輩といった、干支が二周りほどちがうおとなたちと、焼き鳥屋さんに行った。そこで、くぎを刺されたことがある。

「anoちゃん、やさしさと甘やかしを間違えたらだめだよ。そうでないと、あなたは、いっしょにいる相手をダメにしてしまう。線引きは自分でするのよ。」

当時の私には、その違いが理解できなかったけれど、曖昧に笑ってごまかした。けれど、不思議なことに、家に帰っても、次の朝になっても、その言葉が忘れられなかった。

「やさしさの何が悪いんだろう。」

のどに刺さった魚の骨のごとく、ひっかかる。苦しいけれど、とれない。もどかしい。友情でも、恋愛でも、だれかとの関係が上手くいかなくなるたびに、あの日を思い出していた。

友達にきいてみたこともあった。みんな、いろいろ、教えてくれたけれど、どれもいまいちしっくりこなくて、ぐるぐるひとり、思考をめぐらせる日々。

そんなあるとき、わたしは、「私のすべてを肯定してくれる存在」に出会った。ひと月ほど、時間を共にして、しあわせだった。「自分の嫌いな自分ですら、好きでいてくれる」誰かが存在しているという事実そのものに救われるような、そんな毎日だった。

ところが、別れはとつぜんやってくる。わたしは、何を信じればいいのか、また、わからなくなって、ぐちゃぐちゃで、かなしいきもちでいっぱいになる。鏡に映るのは酷い顔。

友人に事情を話すと、「もっと慎重になればよかったのに、馬鹿だなぁ」とため息をついたあと、「まぁ、そういうところがanoちゃんなんだけどね」と言って、わらいとばしてくれた。

その瞬間、何だかよくわからないけれど、泣きたくなった。友人は、わたしの良くなかった部分を知って、指摘して、そのうえで、「仕方ないなぁ」と笑ってくれる。大切にされるって、きっと、こういうことだ。

「全てを肯定する」の意味は、「良いあなたも、良くないあなたも、手放しに、好きに勝手に、生きていていいよ。どんなことも否定はしないから。」という意味ではなくて、「良いあなたも、良くないあなたも、知ったうえで、向き合いつづけるよ。さいごまで、関わりつづけるよ。」という意味。すなわち、愛である。

はじめて、何を基準に自分の行動を振り返るべきなのか、相手とどのような関係を紡ぎたいのか、どんな風に愛し愛されたいのか、遠くが見えたような気がしました。

そこで、改めて考えてみると、やっぱり「甘やかし」よりも「やさしさ」のほうが優れている感じがするけれど、それもすこし違うのかもしれません。

誰かを無条件に甘やかすのは、無責任で簡単なように見えて、案外、フラストレーションがたまるような気がします。相手のことが本当にどうでもいいのなら、時間を重ねる必要すらない。けれど、やっぱり、一緒にいたいから、知らない間に、自分を消耗してしまう。とすれば、どんなに深い愛でも、限界がありますよね。

そういった意味で、長期的に、温度調整ができる、「やさしさ」で繋がる関係のほうが継続しやすいし、優れているというのも、事実です。

でも、「甘やかし」のほうが、こころの拠り所としての役目を、色濃く担っています。だから、相手が疲れ切っていて、一人で立つのも精一杯な場合には、ぴったりハマるのかもしれません。実際、あの時のわたしは、甘やかされることで、救われていましたから。

うん。やっぱり、どちらにも長所と短所があるから、相手の状態と、自分の状態をよく観察して、見極めるのが上手にならないといけませんね。

善悪の二極化で話を進めることはできないような気がするので、なんだか、この定義、わたしのなかでは、すごくしっくりきています。うれしい。

多少カロリーは多くても、なるべくナチュラルな愛を摂取しつづけていたい。そのほうが、数十年後も、健やかでいられるような気がするから。

瞬間湯沸かし器と並ぶほど、感情的になりやすいわたしなので、その湯気に惑わされず、きちんと目の前にいる相手と向き合って、やさしい関係を、じんわりとあたたかい愛を、形にしていきたいです。

今日はこの辺りで。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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