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無題

最近は家族が死ぬのが怖い。ずっと同じではいられないってわかってるけれど、今のままで生きていたい。20代前半は、とにかく一人でなんでもできるようにと生き急いだこともあるけれど、20代後半のわたしは、ある程度は頼ったり頼られたりしながら生きる部分も持てるようになった。うまく逃げることだって覚えた。多分まだ足跡は残してしまうけれど。

とは言え、家族のようにそういうやりとりができる相手がいるかと聞かれると、ついどこか線引きしてしまうことが多くあまり思い浮かばない。し、これはまだ自分一人で抱えるべきことなのだと今も思っているから、求めていないのかもしれない。けれど、そんなときにぽろっと家族にだけは言えたり、言わなくても気づいてもらえたりすることに救われたりもする。

別にこれは家族愛の話ではなくて、家族を友達と置き換えて読むとしっくりくる人もいれば、恋人、かつての恋人、学校のひと、職場のひと、お店のひと、音楽、小説、洋服、ぬいぐるみなど、自分を支えるものの話。

これはずっと前から考えていたことだけれど、書くことそのものに抵抗があった。でもそれは、イコールわたしはひとりでは生きてゆけない、という解釈になるのが怖かったからなのだと、文章にしてみて改めて気づいた。私はいつも自分自身のことで頭と心がいっぱいなので、誰かのことを考える隙間がなかったのかもしれない。とも、書くことによって距離を取ったからこそ思えた。細やかなニュアンスだけれど、なるべく丁寧に書き留めていきたいし、難しくても言葉にすることを諦めないでいたい。

誰かを支えている感覚。今度恋人の家族に会うことになった。嬉しいよりも緊張が勝るのは多分自分にとって他者から家族に関係性が変わるかもしれない、というハードルがとても高いからなのだと思う。緊張よりも不安よりも恐怖。単純に自信がない。人生の分岐点なので思う存分慎重になればいいよと自分に声をかける反面、風のように流されてゆける身軽な心の持ちようをいつか知れたらいいなと、憧れだけは持ち続けている。

死ぬとか死なないとかそういうことにちゃんと囚われているからこそ、両者の世界を行き来しながら、その境目の渡り方を知ろうとしているのかもしれない。スイスで安楽死を選んだ日本人のニュースを見て、ほんのすこし羨ましかったのは内緒の話だ。死生観に関わらず、選択肢が増えるのは良いことだと思う。

話は変わるが、いま祖母は介護施設で生活している。役所の手続きや洋服の支度や面会は主に母が手伝っていて、素直に大変そうだな…と思う。私が祖母の立場だったら、頼るばかりで申し訳なくなってちいさくしゅーっと縮こまってしまいそうだけれど、とはいえ、母も祖母の世話をすることに何かしらの価値を見出したり、支えられたりしているのかもしれない。また、一人で考えることから始めていこうと思う。

3月から4月にかけて、色々なことが重なったり変わったり。プレミアムモルツを1缶飲みながら散歩するのが好きです。三寒四温の日々ですが、みなさまもよい春をお迎えください。

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