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step

あけましておめでとうございます。anoです。

2022年。happy holiday という表現を知りました。元日も単なる祝日であると思えばホッとする。使ってみようと思うのだけれど、恥ずかしくて。結局、時候の挨拶は変わらなかった。のも、私らしいでしょうか。

みなさんはどんなお正月をお過ごしでしょうか。わたしは、2020年1月1日の日記に救われて息をしています。

また、あたらしく、1が、くるだけ。

そんな一節に励まされるのは、慎重な性格のせいでしょうか。何事も手放しでは喜べないから、相変わらずだねと妹に呆れた声で笑われたことを、いまも鮮明に覚えています。

わたしは、変えたくないことが沢山あります。わたしの孤独を守ることも、あなたの愛に触れることも、身体の声に素直に生きることも、それぞれのひかりを脅かさないことも、意思をもって取り組みたいと思っています。

けれど、いつだって、わたしは、臆病だ。
パチパチと音を立てて燃える心があっても、なんか暑いよね。と、誰かが呟くのを見逃せないからバケツの水をひっかけて火を消してしまう。

だから、前提条件は、自分以外の誰もが傷つかないとして。わたし以外のみんなが不快な想いをしないとして。そのうえでしか、わたしの意思は灯せない。そんなの、意思とは言えない、か。

どうしてこうなったんだろう。

ちょっとやさしくされた記憶をいつまでも大切にできるのは、それ以外の時間でやさしくされない自分に気付かないため。相手に言葉を返さず、自分で自分を抱きしめるだけで充分であると繰り返すのは、ほんとうは、何もかもを、諦めるほうがずっと賢いって気付いているから。

きらきら。身の丈にあったきらきら。本命の履歴書を送った日に自分へのご褒美として購入したネイル。あたらしい1日を始めるために塗ってみる。無事に内定をいただいたこともあって、過去の自分が落とした涙を、指ですくってあげた心地だ

きょうのわたしも、あしたのわたしも、すべてのわたしは、過去形になる。そのとき、そのときでは、抱えられなかった想いも、吐き出したかった言葉も、時間をかけて消化してゆくつもりです。

何年か前の大晦日、近所の神社で見た、大きな火を覚えている。お焚き上げと呼ばれるそれは、古いお札を浄火で燃やすことで宿っていた神様を天に還すための儀式らしい。

あのとき、ぼーっと火を見ているときに感じた心の安らぎをいまも覚えている。思えば、人類は、火を手に入れてから、獣と戦ったり、安心して眠ったり、ほっとする時間を手に入れたそうだ。

わたしのいのちには、想像もできないような歴史が流れていると思えば、こころづよい。ひとりだけれど、ひとりじゃないのだ。慌てて消した火からのぼる、煙の描くまっすぐな線を眺めながら、いまこの瞬間の自分と手を繋いであげるために、言葉を紡いで。

きっと、きっと、だいじょうぶ。

追伸: 石田真澄さんの写真から色を抽出したstepという名前のネイル。暦の上では春なのに雪が舞う1月のにぴったりな色。爪先が日光に溶けるから、わたしまで、うつくしさの一部になった気がする。何度も救われた、羊文学のstep を添えて。

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