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概念の同一性と自己同一性〈千葉雅也『勉強の哲学』第2章-1〉

本書第2章は自己啓発的な他章とは趣を異にし、哲学的な言語論がテーマになる。YouTubeの解説動画では2章の言語論だけが解説されてなかったり、アマゾンでも言語の話をスキップするレビューが多かったり、全体的に見てかなり浮いてる章だと思う。
今回はそんな2章の自分なりの読み方を説明していく。飛躍や独りよがりな解釈を避けるため、必要な箇所は引用をしていく。なお、僕が読んだのは文春文庫版なので引用はこのページ数で示す。

1.言語それ自体として

「言語をそれ自体として遊びで操作」(60頁)とあるが、まず「言語それ自体」とは何か。
この語句について、千葉は読み方の指定をしている。

「新たな言葉の定義には、すぐには慣れません。そのとき言葉は一時的に、不透明な異物になる—音の塊、謎の記号になる。不透明な異物としての言葉が、現実から浮き上がっている。この状態が『言語それ自体』であると捉えてほしいのです。」(43頁)

この一節の前後ではヴィトゲンシュタインなどを引いて、職場や学問などの専門的な領域では往々にして、同じ言葉でも、用法の面では普段使用される仕方とは違った仕方で使用されたり、また意味の面では日常的に込められる意味とは別の意味が込められたりと、TPO(時間、場所、状況)や文脈に応じて、言葉はその振る舞いを変えることが指摘されていた。

言葉の意味は、環境のコードのなかにある(32頁)

と、千葉は題を振る。
「コード」についても千葉は規定を与えていて、「環境における『こうするもんだ』とは、行為の『目的的・共同的な方向づけ』である。それを環境の『コード』と呼ぶことにする。」(26頁)とある。僕たちは学校では制服を決められた仕方で(シャツ出しなどせずに)着て、授業中は(YouTubeや音楽をかけたりせずに)静かに過ごすし、通勤途中の電車では大人しく(せわしく鼻をほじったり頭をかきむしったりせずに)本を読んだりスマホをいじったりして過ごす。このように僕たちは、(コードに)振る舞いを制限されながら、或いは自ら(コードに照らして)制限しながら日常を送る。これは言葉の振る舞いと似ているんじゃないか。

僕たちは普段言葉を使うがその言葉の一つひとつもも、僕たちの振る舞いが制限されるのと同様、その用法や意味に制限が課される。「この場所ではこの意味になるはずだ」「この場面ではそんな難しい言葉は使わない」など、こうした無意識の判断のうちで相手の言葉を受け取ることができるから、コミュニケーションが成立したり、あるときは失敗したりすることができる。同じ語の響きなのにも関わらず、渓谷で言われる「はし」と食堂で言われる「はし」の意味を僕たちは混同しないだろう。それは僕たちが、こういうときの「はし」は橋の意味であるべき、箸の意味であるべきと、(これを一々言葉にせずとも、)環境のコードを参照することで、語の意味を制限することができるからだ。

このように考えると、自分の持つ語彙を、自分の思う意味での使い方とはまた別の仕方で、また自分の埋め込まれている環境のコードの仕方とは別の仕方で語の意味と用法を制限できるのでは?というアイデアが浮かんでくる。そのメソッドこそが千葉の言う「勉強」なのだと僕は読んだ。

場から「浮いた」語りを分析すれば、即、勉強の本質を知ることになる。(60頁)

「場から『浮いた』語り」とは、上に書いたような、語の用法と意味のオルタナティブな制限の仕方を言っているんだろう。普段決められた制限の仕方からわざとズレるというのが、千葉の「浮く」ということだと僕は読んだ。千葉はこの事態を簡潔に、「共同性から分離すること」(61頁)とも言っている。

そして節の最後に千葉は、TPOに応じてみんなが使っているような仕方=「道具的な言語使用」ではなく、そこから「浮いた」意味と用法にわざと言語を制限してみる、これが「玩具的な言語使用」(「道具的な言語使用」と対比して)であり、言語が言語それ自体としての在り方を体現する言語使用なんだと思う。ちなみに千葉は、玩具的な言語使用の例としてダジャレ、早口言葉を、道具的な言語使用の例として「塩を取って」という依頼の語句をそれぞれ挙げている(48,49頁)

また、「言語それ自体」が再び出てきたが、もうこの語に関する理解は容易だと思う。先程「はし」の文脈依存性を説明したが、このとき場所に応じて「橋」と「箸」の二つの意味を考えた。(「端」の意味も考えられたが今回は扱わない。)
ところで、言葉は文字の形や音の響きといった物理的側面を持ち、これは固定されてる。(ひとそれぞれ声の高さや大きさによって発音が異なる、字の書き方に違いがあるが今回は無視する。意味や用法の振れ幅に比べれば、物質としての言葉はだいぶ固定的だ。)物質としての言葉を箱に、言葉の意味や用法を箱の中に入っているものに例えると理解しやすいかもしれない。箱の存在は一目瞭然に共通了解が得られるが、その中身となると個々の解釈に委ねられる側面がある、という具合に。この箱のような存在の仕方を言葉はすることがあって、この存在の仕方を「言語それ自体としての在り方」と表現するのだと僕は読んでいる。

2.アイロニーとユーモア

言語をそれ自体として玩具的に使用する方法にアイロニーとユーモアがある。アイロニーは、環境のコードによって自分と言葉が制限されていることに自覚的になり、それを殊更に取り上げ批判することで、例として千葉は、就職が上手くいかない友達に対して「そもそもなぜ働く必要がある?(君は大学を出たら働かなければならないと思ってるようだけど)」「そもそも働くって何?」といった言葉をかけることを挙げる(66頁)。これとは逆に「次も頑張りなよ」と励ますのは、「大卒後は働かないといけない」という環境のコードを追認することにはなるが、これが普通だろう。またユーモアは、日常生活の環境のコードとは別の仕方で自分と言葉を制限することで、千葉は例として、不倫報道を見ながら「不倫ってさ、音楽なんじゃない?」(93頁)と言うことを挙げる。これを言われた人は、不倫から音楽的な側面を無理やり解釈しようとする。こいつはリリックとメロディの協調を男と女の交わりに例えてるのか?それなら分からなくもない、というふうに。この解釈によって、不倫という言葉は、普段のそれの意味を超えて別の意味(というより見方)をもつことになり、また音楽という言葉は、普段のそれの使われ方とは別の仕方で使われている。

ところで、アイロニーとユーモアは「コードの不確定性」(65頁)を利用した方法だ。上で見たように、コードを殊更に言語化し疑うことができるし、コードによる意味と用法の制限は、不倫と音楽の例を見ればすぐに解除できることがわかると思う。これは「コードの不確定性」を物語っている。ただし、不確定と言っても、コミュニケーションが成立するある程度の確定性はもっている。なぜならコミュニケーションが現に成立しているからだ。
コードが完全に不確定の状態とは、自分が何をすればいいのかわからない状態で、また言葉が(数ある意味や解釈にの内)何を意味するのかわからない状態のことだ。授業中大音量で音楽を聞いたり金髪で出社したり、相手の言葉や行為を表面から受け取らず永遠裏の意味を穿ったり(統合失調症の一症状?)といったコードによる制限が全く機能していない状態のことだ。このコードの機能が無効の状態が、千葉の言う「ナンセンス」(74頁)だと僕は理解している。

疑おうと思えば疑える、別の意味を探ろうと思えば探れる。しかし、僕たちの生活はこうして一々立ち止まっていたら立ち行かないので、コードを経済的節約的に利用する形で追認し、こうした面倒くさいことを無視して生きている。ちなみにこの無視については、芦田宏直「フレーム問題と世界」がわかりやすいと思うので貼っておく。
http://www.ashida.info/blog/2008/01/post_261.html

ここまで書いたが疲れたので、以下の三つは次回に譲る。

3-1.アイロニー論

3-2.ユーモア論

4.「享楽的こだわり」と「非意味的形態」

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