おやすみ

早咲きの桜に、初めて微笑みかけることが出来た。一緒に見られたね。ねえ、さようならはいつも春だね。

真新しい病室のベッドに横たわる貴方の大きくて強い温かい手を握りながら、やけに鮮明な記憶を辿る。私にくれたもの。倉庫の屋根から伸びる大きなブランコ、ピンク色のアイスクリーム、たくさんのお人形、愛、愛、愛。夢の話をした。二十歳になったら、祖母や母も着た、あの青いお着物を着るよ。あの時こんなことあったよね、覚えてる?貴方は首を横に振った。大丈夫、私が忘れてあげないわ。ずっと瞑っていた目を開いて、泣き腫らす私を見た。荒い呼吸をしながら、私を見た。白い髪、白い瞳はまるで神様のよう。貴方は私に、殺してくれと言ったね。ここにいる全員で順番に首を絞めてくれ、と。私は口角を下げて子供のように泣くことしか出来なかった。モルヒネを規定より多く投与して、痛みも感情も麻痺させる。悪い虫に蝕まれ尽くしている身体のわりに、はっきりとしていた意識を朦朧とさせる。酸素マスクの音と、息の音が響く。確かな呼吸、確かな生。またね、おやすみ。と笑いかけ、病室を出る。

スマートフォンが鳴り止まない。何度も通った道のりが、こんなにも長い。冷静すぎる私が、怖い。早く。早く。夜が明ける前に、戻ってきてしまった。反射する光は赤色。まだ温かい手を握りしめる。指先は冷たく、自分の体温で誤魔化した。眉間のしわは消えていた。やっと、楽になれたんだね。本人が望んでいたこと。だから、よかったのね。そうか、そうか。あの人に、会おうね。
大人はもう、今後の手続きの話を始めていた。

4歳の女の子には、お星様になるんだよ、と教えた。もう私は教えてあげる立場になったよ。お歌を聞かせてあげたら?と言うと、彼女は囁くように、上手に、ゆりかごのうたを歌ってみせた。「また会える?」「じいちゃんがいい」と寂しそうな顔を見せる彼女の純粋さにただひたすらに涙を流す。すると彼女は泣かないで、泣かないで、と顔を覗き込んでは何人もの大人の背中を摩っていた。目まぐるしい数日の中で、誰もが本心を流せた時間だった。

名前も知らない親戚や知人に頭を下げる。悲しくてもご飯を食べる。笑う。眠る。おはようと言う。なんか、生きてるってかんじ。これが、生きるってこと?死ぬってこと?なんて悲しくて苦しいことなんだろう。
あの時私の目の前で弾けた、愛犬の鼻ちょうちんを思い出す。硬くなった体は当時小学生だった私には重すぎて、生き物の運命を目の当たりにした悲しみと恐怖もまた重すぎたから。

肉体を手放す恐怖を感じた。こんなにも呆気ない。置いていかないで。でも私の名前を、覚えていてくれた。それが幸せ。お箸を上手に使えてよかった。貴方を離さない。生きてるって、なんて残酷で幸せ。一人でも手と手を合わせることが出来るの。貴方を想って、初めてあの曲がわかった。いけるかな 君のいる場所へ 。昨日は雨が降っていたのに、その前は霧が濃かったのに、大袈裟な程にいいお天気。雲の隙間から白い光が差す。映画の演出じゃないんだから、と笑ってみた。今夜はお星様はみえない。みえてないだけだもの

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