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わたしと震災 (fb投稿まとめ)

わたしと震災、facebook投稿まとめ
(記録/共有用メモのため、めっちゃ長文です)

11年前から、時系列で昔の文章から記録しておこうと思ったけれど、
その時々での変化があって
当時感じていたことを忘れたくないという想いももちろん強いのだけれど、
変化したいまの感じ方がやっぱりいまの自分には大切にしたい言葉なので
(過去の自分の言葉遣いが幼くて隠したいのもありますが、)
最近の投稿からさかのぼる形で2012年の投稿まで。



2021.4.11

10年と一ヶ月目の今日
なんでかな、すごく大切にしたい日な気がする
震災10年の報道ラッシュが終わって最初の月命日
先月の11日、たくさんの人が想いを馳せた
今日、想いを馳せた人が少ないのはしぜんなことなんだと思う
私にとって今日のこの時間は祈り
あるひとにとってはこの時間は喜びで(多摩川賑やかだった)
あるひとにとってはこの時間は震災とは別の苦しみだったり、悲しみ
多摩川のほとりで祈ったあと、
赤ちゃんと写真を交互に撮るお父さんお母さんに、
3人の写真撮りましょうかと声をかける
青空、大きな木の下、とても幸せそうな家族
あたたかくて、なぜか涙がこぼれそうになる
まいにち、ひとの数だけ
いろんなできごとがあって、いろんな感情がある
みんなの、それぞれの感情が、想いが
大切にされますように
みんなが、できたら無理なく
どうかどうか、生きていられますように

*先月3月20日の震度5強の地震のとき、私はちょうど被災地、宮城の野蒜海岸にいました。友人と全速力走って車で高台へ移動し一時間待避しました。どう自分やまわりのひとをまもれるのか、大事にできるのか、改めてほんとに考えさせられました
*3月に友人数人を2回、宮城のわたしにとっての震災を、被災地を案内させていただきました。この状況下ですが、どうしても大切にしたくて。現地でいっしょにあの出来事を、痛みを感情を、わかちあえた時間が本当に尊かった。状況が落ち着いたら、もしよかったら宮城を、わたしにとっての震災を、案内&一緒にみつめさせてください



2021.3.10

ひとりひとりの中にある、いたみを想う
迷いながら、毎年この日に投稿
10年という月日 
一色じゃない
ひとりひとりの、それぞれの、様々な想い
そしてひとりひとりの中にある想いも、一色じゃない
痛みも、一色じゃない
被災されたことで感じた痛み その中にもいろんな色がある
大切な人たちが被害に遭った痛み その中にもいろんな色がある
被災地に通う中で感じた痛み その中にもいろんな色がある
報道をみたり、話しを聞いて感じた痛み その中にもいろんな色がある
痛み、一色でもない
痛み
悲しみ
苦しみ
辛さ
絶望
あたたかさ
優しさ

希望
信頼
そんな言葉では表せない
言葉未満の、感情
感情未満の、感覚
そしてそれらの色が、一色じゃなく、まざりあう
切り取って、一色をみるんじゃなくて
ぜんぶの色を、見ていたい
ひとりひとりの、それぞれの色が想いが、祈りが
どうかどうか、静かに大切にされる明日でありますように。

***
写真を添えるかすごく悩んだ(一度投稿消しましたすみません)
いろんな想いのかたがいるし
私もきっと明日は涙流すし
明るくとか希望とか、そういう色付けしたくなくて
でもこの写真が、いまの自分のきもちに近い気がしたから
いろんな色があって
やわらかく
あたたかい
どうか、皆さんの心が、そんなあしたになりますように
祈りを込めて
狛江のいばしょにて、子どもたちと春で遊んだ写真です

画像1



***
一昨日は、今住んでいる地域の小学校の朝会で、震災の話をさせていただきました。
その前日は、何か月もボランティアをさせていただいた団体”エマオ”のzoom会でお話をさせていただきました  
“いま、子どもたちに伝えたいこと”
“あの出来事、出会いは私にとって何だったのか”
という、とてもまっすぐな問いをいただいて、
自分なりに精一杯向き合いました。
“私にとって”の3.11を、話したことを、改めて文章にしてみました。自分の記録用だけど、もし読んでくださる方がいたら。
https://note.com/amu_candle/n/n48eafeac969e →小学校
https://note.com/amu_candle/n/n71a4ef5236e0 →エマオ

***
気づかなかった、身近なそれぞれの痛み
この投稿で初めて知った、わたしの妹にとっての3.11
https://note.com/pocket_marche/n/n97f56e240fec

***
いろんな想いがあるけれど、
わたしはやっぱり仙台で過ごしたくて
今日仙台に来ました
静かに、明日は祈りたいです

***
私がやってる”あわいろ”という活動で、13日の夕方オンラインで、28日の夕方東京でオフラインで、それぞれにとっての3.11を語りあう場を持たせていただきます。
聴くだけでも大丈夫、沈黙も大事にしたいと思っています。あの出来事に関わる、いろんな色を大事にしたい。それぞれの主観でいい、それぞれの、”私事”を聞きたい。被災してもしてなくても、被災地を訪れても訪れなくても、それぞれの想いがある。一人一人があの出来事を通して感じたことを、一緒にわかちあえたら嬉しいです。
https://note.com/awairo_story



2020.3.11

どこまでも、うちのめされたいのかもしれない
9年という月日
自分が、何もできなかったこと
自分が、無力なのがたまらなく悔しかったこと
自分が、それでも通い続けて向き合いたかったこと
自分が、確かに辛くて痛んだんだということ
自分が、確かに涙を流したこと
その、心の振動が、しんどく、胸を痛めつけながら
でもどこか、生きていることを確かめさせてくれる気がする
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それぞれのひとが、言葉にはしなくても
きっとそれぞれいろんな想いを抱えているから
今日の投稿は避けようと思ったけど
FBのタイムラインにしてもテレビにしても、
どこか、遠くて、どこか、さびしい気がして
それが全く悪いわけではないし、向き合うのがしんどい人もいるし、当たり前に発信される日常が尊いし、その裏にみんな、きっとそれぞれ想いを持っていると思う
でも、どうしてもやっぱり私は大切に想い返したいことだから、自己満足の投稿をお許しください

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いつも、特別な日にはしたくないけど、でもどうしても大切な日
私も正直、遠くなっている。
地元の仙台で経験した震災、
2週間後から年間の1/3ほど沿岸部に通わせてもらった日々
自分は津波で被災していないけど、そのいたみと、向き合い続けた日々
そんな日々の記憶を、どうしても確かめたいから、
今年も前夜から当時の映像を観て、当時のボラ仲間と電話して
涙を流しながら、ただただ、立ち尽くす

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昨年に続き、地元の仙台以外で過ごす、2回目の3.11
今日は仕事で、私のクラスの子たちに、震災の話しをしました。
年長さんでも、生まれたのは震災から3年後。
「東日本大震災」「津波」、、、言葉は知っている子どもたち
何を、どう話すか。前夜すごく考えたけど、全然わからないまま
それでも、必死に、話してみた
当時のこと、亡くなった後輩のこと
無力だったこと、でもたくさんの人の想いが集まったこと
ひとって本当に優しくて、強い存在だと
そう教わったからこそ、いまこの保育の仕事をしていること
だいすきなみんなのことを、みんながだいすきな家族や友だちのことを、本当に大好きだから、守ってほしい、大切にしてほしいこと
涙があふれてきて、全然まとまらなくて
何が伝わったかもわからないけど
帰りにさようならをするときに、年中の男の子が
"今日はみんなで手つなご"、って、みんなで手をつないでさようならしたことが、
じんわり、あったっかくて、いとおしかった。

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先日、映画"風の電話"を観た
パンフの監督の言葉に
「声高に何かを主張する映画ではない(中略)。ただ、生きるということに寄り添ってくれる映画であってほしい」とあった
時が解決するとか、悲しみを乗り越えるとか、前を向いて生きるとか、やっぱりどうしても、私はひっかかってしまう(被災された方をこころから想って言うその想いは尊いと思うけど)
いたみや悲しみに、どこまでもいつまでもうちのめされて
それでもその心の震えとともに、生きていく
そんな、"生きる"にも、寄り添える世界であってほしいと願う



2019.3.12
8年という月日。
初めて地元の仙台以外で迎えたこの日
心が震え、感情があふれる
いま、生きる。


感じる悲しみや、痛みを、かみしめたいと思った
覚えていたいと思った
流れる涙を、ビンに集めてとっておきたいと思った
大切にしたいことが、想いが、やっぱりそこにある気がしたから
自分から、震災のことを思い出したかったんだな。
津波の被災をしてないから言えるのか、
だとしても私もボランティアとして、ひとりの私として、
痛んだから、心をたくさんつかったから、私の感じたままを書く。昨日の夜に紡いだ言葉を。
他人の痛みと、つらさと、悲しさと出会った
自分の痛みと、つらさと、悲しさと出会った
わからない、けどわかりたいと願うこと。
祈るしかできないこと、それでも祈りたい気持ち。
ひとりひとり、感じる痛みや悲しみが、苦しい
でも、いとおしく思えてしまうこと
寄り添うって、なんだ。わかるって、なんだ。
向き合うって、なんだ。痛みを抱いて生きるって、なんだ。
“自分が自分を生きること”という今の自分のテーマ
その真ん中に、ひとの痛みや、悲しみや、
しんどさというものがあって、
そこに、ひとが生きるということ、
本当のあったかさややさしさを見る気がして、
大事にぎゅっとしたいと思うようになった、この8年


伝えたいというより自分のために、震災のことを話したいと思う。不謹慎かもしれないけど。
決して津波を見てもいないし経験もしていない、
ボランティアだってもっとかかわってる人がいる
けど、自分なりに仙台で震災を経験して、2週間後から津波被災地に通い続ける中で、いっぱい心をつかって、感じさせていただいてきたことを、8年かかってまだぐちゃぐちゃしている想いを。三重に来てから出会った方にも、聞いていただけるなら、ぜひ。


仕事で関わる子どもたちは、8年前まだ生まれていない。まっすぐな感情が表情が、本当にいとおしくて尊くて大切で、目の前に今を全力で生きていること、ただただぎゅっとしたくなる。


震災一週間後から通った団体が先日活動を終了した。
ひとがひとと生きるっていうことを問い続けてくれて、
ひとの優しさやあったかさが本当に美しくいとおしいと思えた。
そこでのたくさんの出会いに、心から感謝。


震災から5年を迎えたときに書いた自分のことば。今だったら、”前を向いていく”じゃなくて、”ただ生きていく”、かなぁと思うけど、いまも真ん中にある想いです。(以下引用)
よわさ、いたみ
そんな感情をポジティブに「変換」するのではない気がする。
ネガティブなきもちを忘れて、明るくなるのでもないと思う。
復興、頑張る、元気に…わかるけど、
なにか言葉だと違うこともある。
来てくれた友だちが言ってくれたけど、
言葉にできなくていいこともあると思う
よわさやいたみを少しずつ受け止めながら、
自分の中にとどめ、たどりながら
自分の中のそういう部分を大切にしながら、前を向いていく
ぐるぐるしてもいい
心って階段みたいに一段一段あがり続けていくものじゃない
ぐるぐる、ぐるぐるしながら
痛みとともに生きていく
弱さとともに生きていく
そんな自分を、ちゃんと認める
そんなふうに わたしは生きたい
海の写真も、震災の投稿も、いろんな想いのかたがいると思うけど
わたしの想いを、記したくなりました。



2018.3.15

特別な日にはしたくないけど、大切にしたい日
喜びも嬉しさもわくわくも、悲しみも痛みも苦しさも
自分の感情をぎゅっと抱いて一緒に生きることを誓う、地元仙台の海




2016.3.30

地元仙台、震災とじぶんの5年  ※とても長い
特別な日にはしたくなかった
5年目という区切りを勝手につけて投稿することも違うのかもしれない。海の写真を載せるのもまちがってるかもしれない。勝手なこと書きましたご批判もあれば教えてください。
でも、やっぱり自分自身にとっての5年目の3.11はとても大きかった。海はいろんな想いをくれた。こんなに自分の中で伝えたい思いがあふれてくるなら、やっぱり書いてみたい。
そう、なんで伝えたいと思うんだろう。先日宮城に来てくれた友だちに少し、自分にとって大切な地元の沿岸部の場所を案内させてもらった
自分にとって大切だった場所が失われたところを、何故みてほしいと思うのだろう。そこに住んでいたわけでも家族を亡くしたわけでもないから言えるんだろうか。少し、大切だから?でも大切に少しもたくさんもあるのだろうか。きもちが高ぶる。どきどきする、きゅーっとなる。でも伝えたい。
こんな言葉は失礼かもしれないけど、みたい。みせたい。そう強く思う。目に見えてるものも見えないものも、なくなったものがたくさんあるんだって思ったって友だちが言ってくれたけど、なくなったものがたくさんたくさんあるのに、そこに伝えたい何かがあるのはなぜだろうか。でも何かが本当にあるのだろうか。

12-13日の三芳での子どもたちとのお泊り企画の夜にも、キャンドルを囲んでの一日の終わりに、少し、地元での震災を通してのお話をさせてもらった

5年前の昨日、はむ(私)は地元の仙台にいました
あのときは、いまみたいなろうそくの明かりでたくさんの人が何日も過ごしたんだよね
あれだけのことがあって、つらくて、くるしくて、海に行きたくてもいけない人もいる
それでも、だけれども、被災地の方は、そして人間は、うみや、やまや、しぜんにいかされているし、
これからも、自然と一緒にいきていくんだって、そうはむはおもった
あした(13日)もみんな、やまにいく、うみにもいくよね
そのとき、どっかでそんなことも感じててくれたらうれしいな。
あしたも、すてきな一日になりますように
おやすみなさい

つまらない話だったのに、みんな静かに聞いてくれて。翌日の海で、こんなにきれいな海なのにね、ってその話を思い出してくれて、嫌な話じゃなかった?ってきいたら、ううんって力強く言ってくれた子もいた。あ、なにか伝わってる。ちょっと不思議と嬉しく思えるのはなんでだろう
子どもと自然の中にいるのが好きなのは、
どっちも いきること いのちと一番近い存在だからなのかもしれない。自然も、子どもたちも、「今」を大切に大切に生きている。そんな時間の流れに身を置くと、とってもしあわせなきもちになれる

こんかいの3月の震災ボランティア、被災された方々と会うたび、いつも以上にいろんなことを感じさせられた。
当時のことを堰を切ったように語られる方、仮設から出ることで、5年目、これからが大変と繰り返す方、5年間で来てくれたいろんなボランティアの人を懐かしく思い出す方、当日津波に追いつかれた道を走りその状況を伝えてくれる方…

今までずっと、被災された方々とどう向き合うんだろうっていうことを自分なりに考え続けてきたつもりだった
あえて言えば、「ボランティア」として実家の仙台から、東部道路を越えて、津波が来た仙台の沿岸部を行き来する日々。大学1年の1/3はそうやって過ごした(仙台は東部道路っていう高速道路を境に津波の被害がまるっきり違うところがあります。)
はじめはどこかに、同じ仙台の人として、何かきもちがわかれるっていうおごりがあった
でもそこをくぐるたび、景色も、空気も違って
自分はこっちがわの、津波を経験していない人間なんだ、違う世界から来たんだ、本当の意味で沿岸部の方の気持ちは分かれないんだと突きつけられた
それがなぜかわけわからないくらい
わかれないことをわかろうと思って自分を苦しめて、辛くて、悔しくて、気持ちがぐちゃぐちゃになりながら、それでも連日、わかれないけどどうしても近づきたい、わかりたいと必死に沿岸部に通わせていただいた。わかれない、その限界を自分の中で自覚することはすごく大切で、それでも知りたいと思うこと、わかりたいと思うことは大切なことかもしれない。そうやって、被災された方と向き合っていると思っていた

ここから、明らかにおかしいかもしれないし、沿岸部の方の気持ちに反するかもしれないけれど…
でもでも、そういうふうに思いすぎることで、あえて言葉を使うなら「被災した」自分と、沿岸部の方(そもそもこうやってくくることがおかしいのだけど。ひとりひとりだから)を切り離しすぎていたのかもしれないとも思った。語弊があるかもだけど、ことばがみつからない。
家も家族もある自分なんかが被害者ぶるのは違う。本当にそう思う。でもそうってわかってるけど、それでも、でも、自分なりに地元仙台の震災と向き合い続けることは、いっぱい、いっぱい苦しかったし、つらかった。
沿岸部の方のお話を聞くとこころがきゅっとなって、あとからいっぱい泣き
信じたくない受け入れられない光景を毎日目の前に突き付けられて泣き
果てしないヘドロと向き合い、"がれき"という名の一人一人の生活と向き合い
思い出の場所は形を変えてあの日のままで、
同じ宮城仙台の友だちの辛さと向き合う
いつもいつも目を背けたくなったし、いまだにちゃんと向き合えていないんだなぁと思う
ひとの痛みをすこしでもわかれたら、そのひとに近づけたらと思って関わってきたつもりだったけど
自分の痛みにすら気づけていなかった 置き去りにしていた
自分が傷ついたことを言いたいわけじゃない、同情してほしいわけでもない
こんなに弱い自分 その弱さは、自分の気持ちと向き合えてなかったんだなって
やっぱりでもその痛みを、弱い自分を認めてほしくて伝えたくて、
震災のことを話すときなんか傷ついたじぶんを演じている気がしていたけど
やっぱりその演じてる自分が本物で
その自分の痛みをだれかに認めてほしかったんだと思う。
もちろん、ボランティアとして必死に目の前の方の何か力になれたらと日々向き合い通い続けた自分もいて、それも自分の震災との向き合い方だったと思う
沿岸部の方ひとりひとりの3.11と向き合うと同時に、自分の中の3.11と向き合い続けているんだなと5年して、ようやく気づいた

あんなことがあっても、私たちは海に生かされている
生きること、いのち、そういうことを問い続けたいと思うようになった
よわさ、いたみ
そんな感情をポジティブに「変換」するのではない気がする。ネガティブなきもちを忘れて、明るくなるのでもないと思う。復興、頑張る、元気に…わかるけど、なにか言葉だと違うこともある。来てくれた友だちが言ってくれたけど、言葉にできなくていいこともあると思う
よわさやいたみを少しずつ受け止めながら、自分の中にとどめ、たどりながら
自分の中のそういう部分を大切にしながら前を向いていく
ぐるぐるしてもいい
心って階段みたいに一段一段あがり続けていくものじゃない
ぐるぐる、ぐるぐるしながら
痛みとともにいきていく
弱さとともに生きていく
そんな自分を、ちゃんと認める
そんなふうに わたしは生きたい

震災を乗り越えるってのは違う気もする。二度と繰り返さないために…それもほんとうに大切。
でも、自分が伝えたいと思うのは、弱さやいたみとそれぞれのやり方やペースで向き合いながらそういうものと共に生きていく、その尊さなのかもしれないと、ふと思った。そんな生き方は、つらくも、すごく尊いものに思えてならない
そんな風に、私は私なりに震災を伝えていけたら、
3.11を心に刻んで生きていけたらと思う
主観ってとっても大切なのかもしれない
震災は客観的にも語れる
亡くなったかたの数、仮設にいらっしゃるかたの数、流れる物語のような語られ方、、
でもやっぱり被災されたかたも、ボランティアで関わったり被災地を訪れた方も、遠く想いを寄せる方も、それぞれのひとにとってのあの日の捉え方がある、当たり前に一人一人違う想いもある
言葉や感情に敏感になりすぎてもいい、ぐるぐるぐるぐるしててもいい。自分なりに必死に想像して解釈するのもいい。もがき、向き合い続ける
5年目、やっと自分のきもちが、少しだけ、わかってきた気がする
自分のきもちがわけわからなくなったときによりそってくれたたくさんの方に、心からかんしゃです。
こんなところまで読んでくださりありがとうございます(*^^*)




2015.9.21  ※被災建物の写真が入ります

だけれども
写真とるのものっけるのもためらうけど、どうしても伝えたい…
震災後4年半。先日復旧した仙石線に高校以来で乗る、思い出の場所の野蒜を訪れる、自分の原点のエマオでの震災ボランティア。それと、震災ボランティアをきっかけに参加して団体立ち上げの原点になった三芳の学生有機農業体験。
あー、だけれども、なんだ。
震災ボランティアをしてて、被災された農家さんのもとにずっと通ってて
あれだけのことがあって、だけれどもなお、自然と共に生きる農業を続ける方々
農業ってすごいって思って三芳の学生農業体験に参加したのが三芳との出会いだった。
一年ぶり7回目の今回の学生農業体験でも、天候、ザリガニ、イノシシ、、、
自然ととことん向き合いながらの無農薬無化学肥料露地栽培
やっぱりものすごく大変だけれども、本当にぶれずに自然と向き合い続ける農家さん…。
「自分の標準時計」を大切にっていうことばがとっても響く。
出発点は、やっぱり自然なんだなぁって、当たり前のことを思う。
だけれども。
写真はちょうど3年前にもあげた、震災の被災地の中で自分が一番震災前をおぼえてる東松島、野蒜の体育館
あの時から時を止めたまま、いまもそこにあった。
目を背けたい、忘れたいような現実。
だけれども
どうしても忘れたくない。衝動みたいなもの感じた。
不謹慎かもしれないけど、あのままの姿であったことに安心している自分がいた。
辛いことでも、どうしても、覚えていたいのだ。忘れちゃいけないんだ。
とっても不思議な感覚でした。

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もう一つの写真は野蒜駅の旧駅舎
この二分前、三人の小学生が並んでこの駅舎を通って、歌いながら学校から帰ってたのが、ものすごい心に残った。あれだけのことがあったけれども、それでも彼女たちは野蒜に生きる子どもなんだ、あのときのことを、あの子たちは受けとめているんだって、勝手だけどそんなふうにみえた後ろ姿でした。

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だけれども。
べたな言葉だし、同じ東北でも被災してないから言えるのかもしれない。
でも、やっぱり震災を通してたくさんたくさんの出会いがあって、ひとのつよさとかあったかさを教わった。
今回も、仮設の草取りをしてると気にかけて飲み物を差し入れしてくださる方がいたり
関西からやってきて仮設の方の気持ちを想いながら本当に丁寧に丁寧にかかわってるボランティアさんがいてめっちゃ心うたれたり…大切なことたくさん気づかせてもらいました。本当に、出会いにかんしゃ。
じぶんのきもち、じぶんの原点。
大切にしたいな。




2014.3.22

迎えるのが怖くて、でも迎えたらちょっと前を向けた2年前
自分の中でようやく受け止められて過ごした1年前

遅くなったけど、3月11日は地元の仙台で過ごしました
1年目、2年目とはまた違ったきもち
あったかい人たちに囲まれて、優しいきもちで迎えることができました。




2012.9.26 (被災建物の写真が入ります)

先週、17~21にエマオ(仙台の震災ボランティア)に行ってきました。
先月も2日だけ行って書いてなかったから
今日書こうかと。
先に言っておくけど今回もすごく長い。(苦笑)
この夏は今までと違ってすごく短い期間だったけど
やっぱりすごくいろんなことを感じました。
まず今回もお世話になったスタッフさんと、おうちの方
出会えたワーカーさんみんなに感謝です 

シェアリングとかでも話したけど
震災ボランティアしている自分の中で
去年との変化をすごく意識するようになった!
去年は、ある意味義務感。遊んでる場合じゃないみたいな思いがすごく強くて
それでサークルの合宿とかなんもいかないでずっと仙台にいた。
(その反動で今年はあちこち駆け回ったのかな?)
もちろんそれがすごく有意義だったからいたんだけど
いまだから言うとやっぱりまだ被災地こんなに大変な状況なのに
それどころじゃないよみたいな
嫌悪感っていうのかな それも感じてた
今思うと、そんなこと思わなくてもよかったのになぁって思うけど。
でも今は何より、たくさんの仲間と出会って
微力でも必ず大きな力になれると信じられるようになったし
落ち込むことがあってもその中にプラスを見出せるようになって来たし
自分の感情と向き合えるようになってきた(これはほんとに少しだけれど)
だからなんていうかほんとに自分の気持ちでこれてるなって思う!

それから…
去年ずっと向き合えていなかった
野蒜に行けたこと。これも自分の中ではすごく大きかった。
宮城県東松島市の野蒜は今回津波の被害があった場所の中で
一番なじみがある場所だった。
小さいころから桜貝ひろったり
高校のすっごい思い出だった演劇部の研修でいった場所で。
部活の後輩が亡くなったのも野蒜。
去年の夏も実家のお墓参りに行くときにとおったんだけど
あまりにめちゃくちゃで 受け止めきれなくていた…
でも今回、22日にそこに行って 高校の時に歩いた思い出の道に行った。
自分の中で大きな大きな一歩になった演劇の稽古した運動場にも行った。
松林はすっかり何もなくて、運動場もガラスとか飛び散ったままで。
故郷を失った人の悲しみとは比較することもできないけど
すごくすごく感じるものがありました
まだうまく言葉にできないけど
でも、自分から向き合おうと思って行って
自分の中でしっかり受け止められた。
だからこそもっと前むけるようになったなって
そんな気がする。

さっき書いた野蒜の思い出の場所。
周りに誰もいないのみて静かにシャッターを切りました。
自分のなかで大切に向き合っていきたい。
しっかり目をそらさないでいたいと思うから
あえてここにあげました。

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2012.9.11
1年半…。
去年の、9月11日のことはずっと忘れられない。
被災地で黙祷してて、それまで見てきた辛いこと
たくさんたくさんおもいだして泣いた。
どうしていいかわからなかった。
そんなとき、近所のおばあちゃんが出てきて
ジュースをくれて それで、また泣いた
今度は、震災で教わった人の強さとかあったかさとか
そういうことたくさん思い出して さっきよりたくさんたくさん泣いた。
1年の前日、今年の3月10日も泣き続けたな。
一回大切なこと思い出したはずなのになぁ
また辛いことばっかかけめぐった
そばにいてくれた人のことも全然見えてなくて
すなおに頼ることもできなくて ただただじぶんだけ殻にこもって
どうしようもなくなってた。
ないてばっかりだね。
でも涙のさきってほんとにすてきなことがまってるんだなって
やーっときづけた。それが今年の、1年の日。
あれからもう半年。
べたな言葉かもしれないけど
いま ほんとにすべてに感謝したい。
この夏も友達が仲間がたっくさん仙台に来てる!
なんで人ってこんなにすてきなんだろな!!
みんな大すき!!

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