雑記:パルワールドからポケモン世界の「ひんし」について考える
ポケモンのパクりだと世間を騒がせている、パルワールド。
パルと呼ばれる生物を攻撃して弱らせ、パルスフィアに捕まえる…
なんだか聞いたことのあるようなゲームシステムに、なんだか観たことのある生き物たち。
ゲームシステムの類似点やキャラクターの類似点の他、可愛いキャラクターたちを銃で撃ち、銃を持たせ、強制労働をさせる…そんな点が受け付けられないという話もある。
斯くいう私も銃を入手するより以前に「棒で殴る」…というのが受け付けられない点で挫折した。泥団子や虫喰いぼんぐりは投げつけられたのに。
手を下すリアルさはどうにも苦手なのだ。
ポケモンの中でも「バトルする」というシステムがあり、ポケモンたちはトレーナーの言うことを聞いて傷付け合う。
しかし、その「死」は直接的に目にすることがなかったことに気付かされる。
トレーナーとバトルをする際、倒れたポケモンはトレーナーのボールへと戻る。
この状態は「ひんし」である。今にも死にそうな状態であり、未だ死んではいない。つまり、HPとは命の残量を数値化したものではないということだ。
野生ポケモンを倒した場合は演出が少し異なる。
彼らは煙と共にその場から姿を消すのだ。おとしものはあるものの、パルワールドのように肉塊がその場に落ちていることなはい。
「おとしもの」という書き方は、どこかへ逃げたように連想される。
ではどこへ逃げたのだろう。
戦いに敗れた彼らは、ちいさくなってその場にとどまっているのではないだろうか。
その昔、ニシノモリ教授が発見したとされる「弱まると小さくなる」という性質。(モンスターボールの大きさからしても視認できる大きさではあるが)石の下や草の裏などで息を潜めているのではないか。
草をかきわけて探せば見ることができるのだろう。けれど、トレーナーに死体蹴りをさせないためにも、その姿は見せていない。
伝説やヌシなどのシンボルポケモンが捕まえるまでリポップするようになったのは、初心者や幼いプレイヤーへの配慮の意味だけでなく、「バトルで倒すこと」は「死」とイコールではないことを明確に示したかったのではないかと考える。
…たぶん…(ビクティニ道場を思い浮かべながら)
ポケモンの世界でも、倒すことが死と直結していないのは飽くまで人とポケモンの間の話だ。タッツーの卵はトサキントに捕食され、トサキントはギャラドスに捕食される。そんなギャラドスも進化前は鳥ポケモンの恰好の餌食だ。
残酷ではあるが、自然なのはこの関係なのだ。
ポケモンからすれば、ヒトは徒にバトルを仕掛け、相手をひんしの状態で放置する。食べるためでもなく、縄張りを示すためでもなく、力を誇示し「おとしもの」というトロフィーを集める…と、我々のことを猟奇的な生物だと思われているかもしれない。
漫画『ミステリという勿れ』の中で「何故人を殺してはいけないのか?」と問われる場面がある。久能整はこう答えた。
「いけなくはないんだけど ただ 秩序のある平和で安定した世界を作るために便宜上そうなっている」
死を直接的に描かないのはポケモン世界の秩序であり、より現実的な世界を求めるのであればパルワールドへ行けばいい。類似性の高いゲームが登場したのはそれだけの話であり、プレイヤー側が許容するかは各々が何を重んじているかだ。
死をまろやかに包んだ居心地の良い世界。
初代のライバルがポケモンタワーへ行った後、手持ちからはラッタが消えていた。僅かに仄めかされた死は伝説リポップと同様、広いプレイヤー層に向けた配慮だ。
「黒い」と呼ばれる数々の要素は、明かされたピースを我々が想像で補った結果。この記事だってそうだし、森のようかんで起こった出来事も、ナツミとの観覧車での出来事も、「兄より立派なきんのたま」もだ。
描かれないからこそ、その想像の余地に魅了される。
パルワールドの出現は、それを再認識する良い機会だったと思うと同時に、ドテッコツと一緒に拠点を不器用に作ったり、トロピウスのふさを収穫したり、ヤドンのしっぽをもぎたいという気持ちは強まった。
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