散髪した、思い出した、映画と記憶【連載#2】
今日美容院に行った。髪が伸びて邪魔なので行った。ただの近所の美容院だ。だが今どきの美容院であって、席の横にはディスクとiPadが設置してあり、髪を切るときのマントは両手が通せるようになっているものが用意されている。このマントで自由になった手でスマホを触ったり、iPadをいじくり映像や雑誌を見たりするのだろう。だが、僕はそうしないことにしている。というのも、僕は以前から美容院で髪を切られるときの視覚的体験は劇場で映画を見る体験に近いものがあると主張しており、髪が切られていく細部やマネキンのような自分の鏡像を見るのを一種の楽しみとしているためだ。美容師の方と会話するしないに関わらず、僕は無言で鏡を見つめる。目の前には縦長のイマージュがあり、そのイマージュは微細ながら着実に移り変わっていく。他方、僕はほとんど身動きが取れずにただこのイマージュを見つめ、思惟を巡らすことになる。ここまではいつもの散髪だ。しかし、今日は少し違った。鏡をずっと見ている内に、ふとクロード・ランズマンの映画『ショアー』の散髪のシーンを思い出したのだ。このシーンは『ショアー』の中でもかなり有名な場面であり、それゆえに多彩な議論がなされたカットだ。見たことがある人も多いだろう。もし見たことがなければすぐに見ると良い。だが、あのシーンを思い出したこと自体にはさほど特別なことではないだろう。髪を切りながら有名な散髪シーンを思い出すなど普通のことだ。だが、それでも『ショアー』をそこで思い出したことは僕にとって重要に思われた。手元に資料がないため詳細に引用できないのが残念だが、高橋哲哉が編纂した『ショアーの衝撃』の何処かで、昔アメリカの大学で行われた『ショアー』上映シンポジウムの思い出を語っている人がいたはずだ。その人が主催をする教授に対して、『ショアー』があまりに長すぎるため細部まで覚えられなかったと率直に話したところ、その教授は「私でも細部まで見れなかったり、忘れてしまったり、居眠りをしてしまったり、途中別のことを考えてしまったりする。でもそれが記憶なのです」と返したという。覚えきれないこと、見逃してしまうこと、忘れてしまうこと、それらが記憶であり、『ショアー』であり、映画であるのならば、ふと思い出すこともまた記憶なのではないのだろうか。僕はジョナサン・グレイザーの『関心領域』があまり良い映画だとは思わないが、しかし最後の一瞬アウシュビッツ博物館の掃除風景が映るあの瞬間だけは一見の価値があると思う。ガラスの拭き掃除をするとき、僕は必ずアウシュビッツのことを思い出すだろう。それは僕が経験したものではありえないが、しかし僕の記憶として確実にあるものになったのだ。このような体験が可能となったのはやはりランズマンの功績が大きいだろう。その意味で、クロード・ランズマンの方法は単に証言不可能性や表象不可能性を示すことに留まっているだけではないことがわかる。あの途方もなく長い映画は記憶として忘れ去られ、そして思い出されることによって失敗=成功するのだ。勿論、ランズマンや『ショアー』にも問題はあり、その点については主にジョルジュ・ディディ=ユベルマンとの論争にて争点となっているのだが、しかしそれでもランズマンが完全に敗北したわけではないということを僕は近所の美容院で再確認した。そんな事を考えている内に、髪は切り終わってやがてシャンプーも終わった。会計を済ませ、僕はこの文章を書き始めた。