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《出奔、そして帰郷》

「なぜ、君は大阪へ戻るのだね、非常にもったいない」

この言葉は、かの高名らしい三島由紀夫が私の会社の会長に投げかけた言葉である。この会話が最期だったのだとシュクゾウ(会長)は私に教えてくれた。銀座でいろいろあったのだとシュクゾウは私に語るが、ことの核心は言わない。言えよ。面倒くさいから。

アルチュール・ランボー

仲良くさせてもらっている哲学者の清先生から私にメールがあった。先生が言うには新しく本を出すから、出版されるまえに私にチェックして欲しいとのこと。本のテーマはフランスの詩人アルチュール・ランボーである。ミーティング中にテーブル上に登り、参加者に小便をかけるような男だ。

アルチュール・ランボー、またはランボオ(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)は、フランスの詩人。アルベール・ティボーデにより、ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、ロートレアモン伯爵と並び「1870年の五人の異端者」の一人に数えられた。早熟な天才、神童と称された彼は、15歳のときから詩を書き始め20歳で詩を放棄するまでのわずか数年の間に「酔いどれ船」などの高踏派、象徴派の韻文詩から散文詩集『地獄の季節』、散文詩・自由詩による『イリュミナシオン』まで詩の伝統を大きく変えた。

Wikipediaより引用

清先生の論稿を出版前に読めるという行幸に与れて、私は胸が躍る気分であった反面、そのやりとりが10月末~11月初旬であったことがボトルネックではあった。だって、歳末は仕事が忙しい時期だからだ。

「分量はどれくらいだろうか、50ページ以上あるかな」などと期待と不安を抱えつつ先生からの初稿を待っていると、A4びっしり184ページあったので、容赦ないなと苦笑した。結果的に私のチェックは間に合わず、出版はされてしまったのだが。

小説ではなく論文であったということも、論文それ自体に慣れない私は大いに読むのに苦労した点だ。先生はランボーという近代文学上の聖遺物を解体・分析・再構築していく際に、ご自身の専門分野であるニーチェやサルトルといった強烈なドラッグを使用するが、私としてはそうした薬品が一体どういうものなのか改めて精査して勉強し直さなくてはならなかった。これにはよほど骨が折れた。

もちろん、ここで先生のランボー新説について意見を振り回す気はない。

ただ、私自身ランボーには大いに興味があったし、しっかりと研究したいなという想いが心のどこかに仕舞われていたので、その想いが多少なりとも成就されるような気になり、嬉しかったのも事実だ。変人ばかりがいるコミュニティの中において、際だってトラブルメーカーの若き狂人。

活動期間はたったの5年

ランボーがランボーとして語られるのは、彼の人生のたった5年間における詩作活動を根拠としている。彼の登場は彼の活きた時代ともマッチしたんだなとも思う。家出して詩を書き、金が無くなったらまた家に戻り、また家出して、銃で撃たれて家に戻り、また家出する。

崇拝され、敬愛され、後世の私などからするとランボーは伝説上の生き物でありながら、そうしたワケのわからない行動にどこか懐かしさを含んだ生々しさを感じるのはどうしてだろうか。たった、5年の活動で150年以上語り継がれ、そして数えきれないくらいの言語と人によって紹介される。

アニエスカ・ホランドという馴染みのない監督が撮った『太陽と月に背いて』という映画をご存知だろうか。主演のレオナルド・ディカプリオがランボーを演じるのだが、私はこの映画を高校生のときに観て、強いインパクトを受けた。緩やかな何かが私の感性を縦にも横にも膨らませていくような感覚だ。どこかで何かが自分を待ち受けている、武器を持ってそこまで歩いて行かなければと強く決意した。

《太陽と月に背いて:ジャケット》

直接ランボーに関係ないけれど、ディカプリオの演技も良かった。『ギルバート・グレイプ』の後だからディカプリオが出ているだけで観ていて楽しい。どこからどこまでが演技でどこからどこまでが生粋なのかわからない。
久々に映画を見直したくなってきた。

詩人をさっさと辞める

ランボーへの好奇心を持つキッカケは映画であり、彼の詩集も幾つかは読んでみたが当時はよくわからなかった。今だってよくわかりはしないかも知れない。

ただ、『見つけた、何を?永遠を。それは太陽と混じり合う海だ』というような一節は違和感なくスッと自分の胸に浸透してきた。

しかし、何より、ランボーが詩人屋をさっさと辞めてからの生き方、後世の論壇において重きを置かないその後の人生の方に私は興味が傾いた。何もかもが自分による舵取りで進み、周囲にいる者など放ったらかしでなぎ倒していくような強烈な個性に憧れを抱いた。

ランボーに対して私は素直に格好良いと思う。詩人としてのランボーよりも、アフリカで現地人相手の貿易商をしている元詩人のランボーの方が私としては理解にありがたい。扱うものが言葉から、コーヒーや象牙、はたまた銃というのがいかにも彼らしいとも考えた。

コーヒーは宗教的な儀式にルーツを持ち、同時に世界市場を循環しながら新しい富を生み出す血液だったからだ。

南波照間島という島

「南波照間島」という島の名前をご存知だろうか。沖縄県の八重山諸島の波照間島よりさらに南にあるとされた架空の島。ということになっている。

この島のおもしろいところは、1648年に波照間島の農民40~50人が重税から逃れるために南波照間島に渡ったという記述が琉球王国時代の文書である『八重山島年来記』に残っていることだ。閉じられた世界からの出奔の概念は何もランボーだけではないことがわかる。

「さらにもう1つ南に島がある、と波照間島の人々が空想的に想定したのは、島というのはこれっきりであとはただ波のうねる滄海のみ、というのでは心細すぎる、と思ったのが理由だろうか」

司馬遼太郎『沖縄・先島への道』より引用

南にあるという島を目指し、海に出て行った人たちはどうしたのだろうか。
―見つけた、何を?永遠を―

貿易商ランボーは酷いガンになり故郷へ戻ってきた。しかし、世間体が悪いからと確執のあった母親に言われたからかどうか知らないが、また出奔して死んだ。わざわざ、妹には母親に自分の財産はビタ一文も渡さないと伝えて。

話しを戻そう。清先生のランボー論は慎重にそして多くの研究を基にして、大胆かつ繊細に編まれているが、それについて私は多少ならざる窮屈さを覚えた。それは、こうして自分がランボーについて戯れるように文字を重ねていくうちに明確になったのだが、私という視点から見たランボーと先生のランボーはやっぱり違うからだ。

それは、お互いの歩んでいる人生の相違なのかも知れない。


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