《木曜会:4月4日》
「おおっ」
ヒゲの男がドアを開けて入るなりコロマンサにはぎゅうぎゅうに人が詰め込まれており、木曜会は万作にとって嬉しい悲鳴のあがる百鬼夜行と化していた。これには主催者である冷泉もヒゲの男も「雨が上がれば良いことあるね」と共通して感じたことだろう。
早速、店の扉側に一番近い座席で酒を飲んでいるのはアラタメ堂のご主人だ。ヒゲの男のよくわからない一週間はこの男からの唐突な呼び出しでスタートしたような気がする。(※本ブログ最後尾にて記述)
この日、ヒゲの男は仕事を切り上げてラジオで共演してくれた自由研究さんと船場センタービルにある「天友」に行き、その後、一緒にコロマンサにやって来たので、いつものように腹を空かせながら酒を飲まなくて良いのは救いだった。
万作は、木曜会では食事を作らないと宣言する。どういった根拠があり、そのような強い信念を打ち出すようになったのかヒゲの男は忘れたが、とにかく頑なにフライパンを振ることを断るのだ。
ニコリともせずトマトジュースを粛々と飲み続けるファラオ。その様相は北浜には似合っておらず、かといってエジプトでもなく、どちらかといえばトランシルヴァニア地方に迷い込んだような錯覚を催すと書いたほうが正確だ。トマトジュースを飲み続ける、赤い液体を口にする無愛想な王。
この日は木曜会の役員のようなメンツが大勢揃う。
註:木曜会に役員会は存在しません。
また、データプロバイダーの会社を経営するシゲちゃんと3名の社員。元ライフプランナーの女、芸能プロダクションを経営するSSKMSYK、自由研究さん、常連の不思議な女など、キャラが渋滞していた。
ヒゲの男は21時を過ぎた時点で店に到着していたので、それまでにまだまだ誰かいたのかも知れないと思う。入店した際に「あ、これは報告書に全部書けないわ」と責任放棄したため、漏れがある場合は許していただきたい。こういう日が続くのであれば、ヒゲの男はスケッチでも持っておこうかと考えたりもする。
というのも――。
この夜、コロマンサにおいて冷泉は全く知らないおばさんに眼鏡が吹っ飛ぶほど後頭部を叩かれたらしいが、ヒゲの男はその現場を見ていない。猫の額のように小さな店で発生したことが、こちら側には届いていないような混線状況だったためだ。だが、そこには場内のコンセンサスが揃わない楽しさがあった。各自が独立した部隊のようである。
「歌いたい、歌いたい、なんか皆で歌いたい」と冷泉が鬨の声を上げる。ギターによって弾かれたのはスピッツの『ロビンソン』だった。皆の歌声の合間にラップよろしく冷泉の掛け声が入る「強め、強め、もっと強めで」。この人は時代が違えば、「乱」とか「変」とか起こしてたんちゃうかなと感じた。
別世界過ぎて、さっさと帰ると思っていた自由研究さんはまだ帰らない。コースケ君からSNSのバズらせについて知識を得て、芸能プロダクションのSSKMSYK君からアイドル業界のいろはの知識を得ていた。メタバースのMYO君からも何らかの知識を得ていたようであったが、なんだろうか。全く聞いていなかった。
オルガン横の椅子に座る自由研究さんの対面の席に、ほがらかな顔をしてそのまま入定していきそうなシゲオの顔が印象的であった。数年前、ヒゲの男は自身が果たして今さら社会人として生きていけるのか非常に不安だったタイミングで、彼に質問したことがある。
―事業が失敗するのは怖くありませんか―
彼は答える「社員の生活のこととか考えると不安はありますよ。でも、もし会社がアカンくなっても、僕自身に限ればどこででも採用してもらえる。それくらいの自信はあります」と。
この言葉はこうしてブログに書いていても平易で面白くとも何ともないが、このようにスッと出てくる平易な言葉に真理があるのは確かだ。何も人を捉える表現は前時代的に大仰である必要はない。ヒゲの男は自身の道が切り開かれていく感覚を持った。
そうか、もっと自分に自信を持てばいいのか。と小学生のようなことを身に染みて彼から教えてもらったのだ。彼の一言がなければ今のように夢を持って会社員をしていなかったかも知れない。人の縁とは数奇である。誰の何という言葉が自分に響き、逆に自分のふとした発言が誰に響くのかまったく予想だにしない。
相手を「この人の言葉なら聞いてみよう」という気にさせるコツは、この無警戒でほがらかな顔なのかも知れない。
ホテル暮らしの芸能プロダクション社長SSKMSYKは「ホテルに戻ったとき、ベッドカバーとシーツがピチッとなってるのがイヤなんです」と妙な独白をする。ヒゲの男も同意する、ピチッとし過ぎててレクター博士のような拘束具をつけたまま寝る苦しさをホテルで何度か感じたものだ。
それを聞いて黙ってられないのは、ホテル清掃の統括マネージャーを務めるファラオだ。
「いやいやいやいや、長期滞在のお客さん目線からするとそうかも知れないですけれど、やっぱり最初にホテルに泊まりに来た人にとっては、ベッドメイキングがピシッとできてないとクレームになります。10円を落としてもシーツの上でバウンドするようにって決まりがあるんですよ!」とワーワー言い出す。
木曜会も日付を超えて、1人去り、2人去りする。
楽しさのあまり、すでに終電を逃しているホテル清掃の統括マネージャーは、先ほどまでのワーワーは影を潜め、密かに勤務先のリネン室に潜り込みホームレスのように眠るのだと言い残し、トボトボと堺筋から御堂筋の方へ歩きながら消えていった。
街の人々の装いは、春らしくなってきた。本町では新入社員らしき面々が群れをなしてどこからかやって来て、どこぞへと行く。毎日毎日、新しい何かが起きる予感がする。およそ30年前のロビンソンって曲が今でも日本のどこかで歌われる理由もそこにあるのだろう。
ヒゲの男が世界で最も好きなロビンソンは、ヒゲがギターを弾いて、娘が歌うバージョンである。曲を教えた覚えはなく、彼女はどこかで勝手に知っており、ウグイスのように歌っている。
ルララ、宇宙の風に乗る。
次回の木曜会は4月11日です。皆さん、是非ともご参集ください。
《以下、番外編》
3月30日の午後23時を過ぎた頃——。
アラタメ堂のご主人からヒゲの男に向けてLINEが来る。
ヒゲの男はギターを担いで終電間際の地下鉄に乗り込み、アラタメ堂が指定した正雀の駅まで行き、そこから徒歩5分ほどのウイスキーバーへ辿り着く。アラタメ堂は「さぁ、ギターを披露してくださいよ」とメチャクチャなことを言うが、郷に入れば郷に従えなので言われたとおりにする。そこから3時間くらい延々と店内は随分盛り上がる。
アラタメ堂から「今日はありがとうございました。これ、タクシー代です」と金を受け取り、店を出ると午前4時だった。ヒゲの男は考えた、これはタクシー代にともらったお金ではあるが、もしも私がタクシーに乗らずに帰路につけば、その満額を自由に使えるのではないかと。
逡巡すること刹那、よし、歩いて帰ろうと決意した。
白みだす前の空、最も深く暗い夜の中、ヒゲの男はギターを担いで12キロをてくてくと歩き出した。線路沿いを歩き、広い道、狭い道を分け隔てなく歩き、住宅街でアライグマに遭遇し、淀川の堤防沿いを歩いていると阪急の始発電車が遠くに見えた。橋を渡る電車の軋みが新しく生まれた一日の澄んだ空気によく響いていた。
疲労困憊になったが、気持ちの良い達成感で胸が満たされた。ただ、両足とも足裏が水ぶくれになったので、もう二度としないでおこうと固く誓った。
3月31日(日)——。
昨日、というか今朝の疲労がまったく取れないので今日は一日何もしないでおこうと考えた。しかしながら、どうしても一杯だけビールが飲みたくなる。買って来て飲むのではなく、どこか外でビールを飲みたくなる。ナレーターの大村さんを伴って街歩きが開始される。
ぶらぶら歩いてもあまり食指をそそられるような店が無かったため、解散しようかとなった折、『求めよさらば与えられん』の聖句にあるよう、ヒゲの男は新装開店したばかりのスペインバルを見つけてしまった。
気さくな九州男児が営むバー。ヒゲの男はビールを頼み、スパークリングを頼み、シェリー酒を2杯ほど飲んだ頃には楽しくなってしまっていた。こんな楽しい時間を誰かと共有したいと考えたヒゲの男は、ある人物に連絡を取る。
数分後、バーの2Fのバルコニーでタバコを吸っていると、ずんずんとこちらへ向かってくる黒い塊が見える。そう、ChatGPTの魔改造に燃える黒のIT参謀、冷泉だ。「あ、阿守さん、ここ、なんですね」と冷泉はニヤリと笑いながら階段を上がり、2Fのバーに入ってくる。入るなり早々「このお店で、一番、キツイ酒、ください」とIT参謀は九州男児へオーダーする。
誰か店に入ってくる。唐突に冷泉が吠え出す。敷地内に入ってきた不審者に対してドーベルマンが吠えるごとく、誰かに向かってワーワー言い出す。店の九州男児は何が起きるのかと身構える。今、やってきた客はバーのカウンターの一番奥の席、ヒゲの男たちの真逆に座った。どうやら冷泉はこの男に向かって何かを言っている。
「グゥォオキ!」「グゥォオキ!」「グゥォオキ!」
カウンターの向こうの男は、黒い塊の絶叫が自分に向けられたものだと気づいたらしく、気だるそうにこちらを一瞥する。ジッと見る、何かがこの男の記憶に蘇ってきたのが、その目でわかった。
「ツブ?」「ツブ!?」「ツブ!!」
ヒゲの男にはまったくわからない言語でやり取りする2人。まるで、地球で自分の正体がバレないように身を隠して生きていた異星人同士が、発作的な何らかのテレパシーによって繋がり、いよいよ故郷の星の言葉で話しができる嬉しさに沸いている。みたいだった。
この表現は当たらずも遠からずで、冷泉から「グゥォオキ!」と叫ばれていた男は、冷泉と仲の良い同級生だったのだ。こんな偶然があるのかと、そこから3時間くらい延々と店内は随分盛り上がる。ただ、今思い返してみても冷泉のあだ名が「ツブ」というのは、なんだか風体とミスマッチな感じがして笑える。
2人とも学生時代に戻ったような笑顔で、あの時はこうだった、この時はこうだったと話しは留まることを知らない。多感な時期に行動を共にした人間同士の会話は、色褪せることがないのだと見ていて気持ちよかった。2人は延々と冷泉の爺さんの家で食べた「男根汁」なるものについて語り合っていた。
4月2日(火)——。
この日、仕事で楽曲制作をすることとなったヒゲの男はスタジオにいた。詳細はまだここで書くことはできないが、参加するメンバーは非常にユニークであり、なんだか色々な意味で豪華だ。おそらく誰も聴いたことがないけれど、どこかで聴いたことがあるような価値を持つ音楽になるはずだ。
今回、リズム隊をお願いするのは中学生の兄弟であり、彼らとヒゲの男は楽曲の制作をスタジオで開始する。共に制作をしながら、ヒゲの男は改めて自分の作曲は本来言われる「作曲」というものと違うのだろうなと感じる。ヒゲの男が会社で制作した風変わりな譜面を3人で見ながら、意見交換をしてアウトラインを作り込んでいく。
今のところリズム隊の兄弟を含めて、他の音楽家たちからもこの譜面に対して苦情がないのは、彼ら彼女らの寛容さであろうと感じ入る。こちらに関しては引き続き、また宣伝をさせていただきたい。
ヒゲの男が46年かけて構築した音楽の秘儀をいよいよ誰かに伝承するときがきたかと内心ワクワクしていたが、リズム隊の兄弟の吸収力は驚異的でスポンジに話し掛けているようなもので、46年間の音楽的全ては、ものの15分程度で吸い尽くされた。
4月3日(水)——。
ある企業のテレビCMが今春から刷新されるので、それを皮切りにして工学系の大学院生のリクルート、さらにステークホルダーに向けての記事を書くようにと本社から宿題をいただいたヒゲの男。すでに提出している宿題に対してのチェックバックが手元に戻ってきた。
記事の中身は、日付と会社名を除いて、全て書き換えられていた。心が死ぬかと思ったよ。
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